創作同人サークル『Fal-staff』

『心の鏡』

 私はどうして、こんなところを飛んでいるんだろう……
 まるでミルクの中を泳いでいるかのような、ハッキリとしない意識。目は覚めているし、耳も聞こえる。勿論、視界も良好。だが、意識が……と言うより、気力が底を付きかけて、ふわふわと風に流されるままに、状況に身を任せて宙に浮いているのだ。
「幾ら弱種とはいえ、私だってヴァンパイア……人間ぐらい、簡単に御し切れると思っていたのに……」
 ひとえに吸血鬼と言っても、様々な種類がある。有名なところでは、蝙蝠の姿を借りて夜の地上を闊歩する、ドラキュラ伯を筆頭とする種族。彼らには日光に弱いという弱点があり、行動できる時間帯は夜間に限られるが、その身体能力は人間の比ではなく、逆に夜間であればほぼ無敵と言って良かった。ニンニクや十字架に弱いという弱点が伝えられているが、それは誇大表現であり、彼らに『ただの』十字架を見せたところで怯みもしないし、ニンニクの臭いも『苦手』と云うだけで、深刻なダメージに繋がる訳では無い。
 その他、人型を持たない獣型、果ては昆虫型なども存在しているが、その何れもが、力関係では人間を凌駕している。そう、人間は吸血鬼に敵わない……これはもはや常識であった。ところが……
「まさか、あんな小さな女の子すら従えられないなんて……私って、一体なんなのかしら……」
 彼女達の一族も、確かにヴァンパイアの一種ではある。が、吸血『鬼』と名乗る事が憚られるほど、弱い種族だった。無論、その体力や腕力には個体差があり、単純な力量では人間を凌駕する者もいる。だが、肝心な吸血鬼としての能力は『蚊』に近く、殆ど無力と言って良いほど弱かった。無論彼らには、変身能力も備わっていない。
「空は飛べる、他の種族の血を吸って栄養に出来る……だから、人間より優れているはずなのに……」
 彼女は、襲い掛かった相手にことごとく返り討ちに……と言うより、殆ど相手にされず、酷い時には存在にすら気付いて貰えずにあしらわれ続け、それを繰り返すうちに、ついに自信を喪失してしまったのである。
「皆が外界に降りた後、帰って来なかった理由がやっと分かった……帰りたくても帰れなかったんだ。みんな、人間や他の種族に負けちゃったんだ……」
 彼女の想像は強ち外れではなかったが、少々オーバー気味であった。現に、彼女と同じ種族の者でも、キチンと帰還している者も居るのだ。彼女の両親も然りで、立派に人間を従えた経歴を持っている。その話を幼い頃から聞いていたからこそ、臆病者の彼女も異界へ旅立つ気になったのだ。しかし現実はこの通り。これでは両親の居る、元の世界に戻る事はできない。彼女達の掟として、一度外の世界に出たら、異界の種族を一度は従え、主従の契りを交わさなければ、元の世界に戻る資格を得られない……というものがあったからだ。
 彼女も最初のうちは、何とか帰還を果たそうと必死になり、狙う相手を男性から女性、大人から子供へと……段々と弱そうな者に変えていったが、先刻ついに、小さな女の子を相手に契りを交わそうとして、退けられてしまったのである。これは最早、能力が云々と語る以前の問題であった。彼女達の力量は、そのモチベーションに比例して変化する。すっかり自信とやる気を失った今の彼女では、たとえ赤子が相手でも御せはしないだろう。
「もう、帰るのも無理……何だか疲れちゃったな。ああ、このまま泡にでもなって消えてしまえたら……」
 そんな感じで、彼女はすっかり空気と同化しながら、風任せにフワフワと漂っているのであった。

**********

「なぁ、いいじゃないかよぉ。お前の肩を揉んでやるから、その紅茶を譲ってくれってんだ。無理な相談じゃないだろう?」
「無理に決まってるでしょ! それに、アンタの場合は肩だけじゃなくて、胸まで揉んでくるじゃない! お断りだよ!」
「サービスだよ、サービス!」
「そんなサービスなら要らないよ! さ、買わないなら帰った帰った! 商売の邪魔だよっ!」
「チェッ、なんでぇ! 融通の利かねぇ女だな!」
 男は不満そうに、舌打ちをしながら露天商に背を向けた。顔馴染みのようであったが、お世辞にも良い客とは言えず……いや、客と呼べる代物であるかどうかさえ怪しい態度であった。
「つまらん……ユーモアを理解しない連中は嫌だねぇ。あーあ、面白くねぇ!」
 彼は名をバッカスといい、その名が示す通り、常に酔っ払っているかのような言動で知られた、ちょっとした変人であった。とにかく自分勝手で、我が儘で、それでいて他者の言葉には全く聞く耳を持たないという……ローマ神話のバッカスが聞いたら、ほぼ確実に嫌がるであろう程の、悪い意味での有名人であった。おまけに自他共に認める好色で、『バッカスを見たら娘を隠せ』と噂されるほどの、酷評の主でもあった。尤も、実害が出ていない為、それはあくまで噂の範疇を出なかったが。
「ふん……街は駄目だな、皆して俺を避けやがる。機嫌直しに、少し風でも浴びに行くか……」
 自業自得、という言葉は彼の辞書には無いようだ。自分の行いが自分の首を絞めている事に気付かない……いや、自覚できないのだ。尤も、それが出来るぐらいなら、最初から嫌われ者にはなっていないのだろうが。
 そんな彼でも、一応は傷つくのだろうか。先程のやり取りで機嫌を損ない、気分を悪くしていたのだ。そんな時、彼は決まって、ある場所に行く。手には一本の小瓶。中身はスコッチウィスキーだ。これを喉に流し込みながら、街外れにある小高い丘の上で昼寝をするのだ。すると、酔いが醒めて目覚める頃には、不機嫌の元は忘却の彼方。これを繰り返す事で、彼は『反省』という行動から無縁になっていくのだった。
「いい風だ。見慣れた街の景色も、酒の肴にするには悪くねぇな」
 少し酔いが回り、いい気分になって来た頃合。このタイミングが、彼の最も機嫌の良い時である……しかし反面、彼が一番ワガママを爆発させるのもまた、このタイミングなのであった。が、幸か不幸か、このタイミングで彼に接した者は皆無であった為、彼自身もその事を自覚してはいなかったのだ。
「……ん?」
 ふと空を見上げると、フワフワと宙を漂っている女が居るではないか。年の頃は16〜7と言ったところか、好色の彼から見れば少し青い感じではあるが、悪くは無い。
「どうして女が空から降って来るのかは分からねぇが……コイツを拾わねぇ手はねぇよな」
 酔いの回った頭の中で、思考回路など働くはずは無い。どうして人が空から降って来るのか、そんな事はどうでも良かった。とにかく、目の前に降りてくる『好物』に向かって、彼はまっしぐらに手を伸ばした。
「……えっ!?」
 驚いたのは彼女である。幾らモチベーションが最低で、もはや消えてしまいたいとまで思っていても、いきなり誰かに抱き止められて、驚かずには居られない。
「へぇー、顔も可愛いじゃないか。こりゃあ今日はついてるぞ!」
「え……えぇ!? な、何なの!? 何が起こったの!?」
「何が起こったも無いもんだ、風で飛ばされたシャツのように、お前が降ってきたから……俺はそれを拾ってやったんだ」
「飛ばされたんじゃない、飛んでいたのだ! はっ、離しなさい!」
 突然の出来事に驚いた彼女であったが、目の前で酒臭い息を吐く見知らぬ男を見て、本能的に身の危険を感じたのだろう。即座に臨戦態勢を整え、抵抗を試みる。が……
「……そんな格好で幾ら睨んでも、ちっとも怖くないんだけど?」
「あうぅ……」
 そう、彼女はバッカスの腕の中にスッポリと納まり、しっかりと抱き止められる格好になっていたのだ。この有り様では、幾ら牙を剥いた所で、怖くもなんとも無いのは当たり前であろう。増して、彼女は小さな女の子にすら負けてしまうほどの脆弱。大人の男であるバッカスに、敵う訳は無い。
「ふーん……ちょっと青いが、抱き心地は悪くない。気に入ったぜ、嬢ちゃん」
「嬢ちゃんではない! 我が名はマグ! こう見えてもヴァンパイアだ、無礼は許さぬ!!」
「はい? ヴァンパイアって、あの……夜中にコウモリが変身する、アレか?」
「うっ……わ、我は……彼らのような高級種族ではないが……」
 彼女の虚勢は長くは続かず、既に弱腰になっている。反対に、バッカスの方はどんどん勢いがついて、もはやかなりの上機嫌。こうなると、酔っ払いというものは最早、手が付けられない生き物になっている事が多いのだ。が、マグとて黙っている訳にはいかない。相手は今、酒に酔った状態……それを逆手に取れば、契りを交わしてサッサとそれを破棄、実績だけを手に入れて故郷に帰る事も可能なのではないか……? と考えたのである。
「とっ、とにかく! お前は我と契りを交わし、我に従うのだ!」
「ん〜……? その、契りって……どうやるんだ?」
「簡単な事だ……我がお前の首を、軽く吸えば良いのだ」
「あっそ。こうかい?」
「なっ、違……それ逆! 私がアンタを……嫌あぁぁぁぁ!!」
 その叫びは、虚しく虚空に消えた。だが、しっかりと契りは交わされてしまった……主従関係が逆になっては居たが。つまり今、マグがバッカスの首筋に吸い付けば成功だったのだが、逆にバッカスがマグにキスをしてしまったのである。
「ん〜、美味しいねぇ……若い女の子は肌がスベスベで、良い匂いだ……こりゃあ……たまんねぇや……」
 既に酔いが回っていたバッカスは、そのままマグを抱き枕代わりにして眠ってしまった。マグの身体から発する甘い香りが、更なる安眠効果を与えたのだろうか。彼はマグを抱き締めて、ものの数秒で眠ってしまったのだ。
「うう……お酒臭いよぉ、恥ずかしいよぉ……離してよぅ……」
 しかし、その身体をガッチリとホールドされてしまったマグは、バッカスが目覚めるまで身動き一つ取れずに、ジッとしているしかなかった。尤も、事故とはいえ契りを……しかも主従関係が逆になった状態で結んでしまった為、この場を逃げたくても、逃げる事は出来ないのだが。

**********

「おーい嬢ちゃん、何処だぁ?」
「……嬢ちゃんじゃありません! マ・グ! 何度言ったら覚えるんですかっ! ……で、何か用ですか?」
「いや、もう寝るからさ。一緒にベッド」
「お断りですっ!」
 渋々とバッカスに対して敬語……いや、敬語のような語尾を無理矢理くっつけた言葉で応対せざるを得なくなったマグは、ただでさえ腹の立つ彼の態度と、自分に対するセクハラの数々に業を煮やしていた。
 あの悪夢のような出来事から10日が経過した。あの日以来、マグにとっては受難の日々が続いて居たが、バッカスは上機嫌であった。それはそうだろう、酒を飲みながら寝ていたら突然可愛い女の子が空から降ってきて、しかもその子が何故か自分の傍を離れず、言いなりになって動くのだ。いや、厳密に言えば『ほぼ』という言葉が前に付くのだが、
 一方、自分に直接害の及ぶ要求以外には従わなければならないマグは、苦悶の表情を浮かべながらその屈辱に耐えていた。彼女に拒否権が与えられているのは、添い寝の誘いや身体への接触等、主従の権限が及ばないプライベートな事のみに限定されていた。しかし、それすらもバッカスは無視し、侵害してくるのだ。最早、手の付けようの無い暴挙振りを、彼は発揮していた。
「全く……水浴は覗く、身体には触る、オマケに寝る時は抱き枕代わり……いい加減にしてください!」
「いいじゃねぇか、愛情表現って奴だよぉ」
「こちらには、アナタに対する愛情は一かけらもありません! アナタの愛情を受け容れるつもりもありません!」
「照れなくても……」
「本気ですっ!!」
 一事が万事、全てこんな調子だ。マグにとっては気の休まる暇も無いだろう。
(うぅ……契りの解除は、主であるこの男からしか発動できない……逃げたくても逃げられない……!)
 契りを解除する為には、もう一つ方法があった。しかし、それをやってしまうと、マグはもう二度と両親の元に帰る事が出来なくなるのだ。そう、その方法とは……彼女がヴァンパイアである事を辞めて一切の能力を放棄し、人間になる事である。そうなれば魔力の消滅と共に、契りによる制約や束縛は一切解除され、彼女は自由となる。しかし、この男から逃げる為だけにそれを行う事は、あまりに馬鹿馬鹿しい事であったし、種族転換の儀式には、高度な力を持つ魔族の協力が必要になる為、現実的ではなかった。よって、この男が自分に飽きる……という、絶望的に低い可能性に賭けるしかないのだった。
「……何処へ行く?」
「散歩です」
「こんな夜更けに?」
「私はヴァンパイアです、夜中に動くのが普通なんです」
「……ふぅん……あんまり人様に迷惑掛けるなよ?」
 その台詞、どの口が言った……! という文句をやっとの事で呑み込んで、マグはバッカスのアパートを出た。流石のバッカスも睡魔には勝てないのか、真夜中まではしつこく追って来ない……という事に気付いたのが、昨晩の事だったのだ。
(ふぅ……開放されるのはこの時だけね。ホント、最悪なのと関わっちゃったなぁ……)
 塔のてっぺんに腰掛けて、深い溜息をつく。マグは本当に疲れていた。なぜ私がこんな目に……と自問自答する事すら当に諦めた彼女は、もはやノイローゼに近い状態にまで追い詰められていた。
(……月がこんなに綺麗だなんて……私にも、こんな事で感動できる心があったんだな)
 マグは夜空を見上げ、抱えていた膝小僧を伸ばし、月明かりに身を溶かしながら呟いた。こんなにも感傷的になっている自分が、何となく可笑しくなったのだ。しかも、その原因があの男からのセクハラ攻撃なのかと考えると、もはや笑いしか出ない。ヴァンパイアとしての力を磨く為の修行の旅に出て、何故、こんな見当違いな事で悩んでいるのかな……と。
(お父様やお母様は恋しい。けど、マグはもう疲れました。力も素質も絶望的、ヴァンパイアとしてやっていく自信も、もはや無い……いっそ、上級魔族を召還して、ヴァンパイアである事を辞めて……)
 感傷的になっている時に独りになると、更にネガティブな思考に拍車が掛かるものだ。先程はリスクが高すぎると思って封印した『最後の手段』を、今は『そうしてしまいたい』と思い始めている。このままではまずい……と思い直したマグは、パン! と両頬を叩いて、その場から去ろうとした。例え帰る場所があの男の隣であっても、独りでいるよりは気が紛れるだろうと判断したのだ。が、不意に彼女は、背後から圧倒的な威圧感を浴びせられ、驚いて屋根から飛び立ち、身構えた。すると……
「へぇ、この街にも人型の魔族が居たんだね……アナタ、新顔ね?」
「あ、アナタは!?」
 黒いローブに身を包み、その肩に黒猫を乗せ、宙に浮いているその影は……顔はローブに隠されて見えないが、小柄な体躯と、その声から察するに、恐らくマグよりも年下の少女であろう。しかし、その小さな身体から発せられるその威圧感は、チンケな使い魔の物とは比べ物にならないほど強力……これは、単なる魔族なんかじゃない……と咄嗟に感じたマグは、恐る恐る、目の前の影に問い掛けた。
「……ま、魔女!?」
「そ。アタシ、この辺りの魔族の監視役やってるの。挨拶が遅れたね、ゴメンね」
 気を抜けば、丸ごと呑まれてしまいそうなその威圧感……マグは必死にその圧力に耐えながら、ガクガクと震えていた。それはそうだ、マグはヴァンパイア……いわゆる『魔力を持った生命体』の中の一体に過ぎない。が、目の前の相手は、その存在そのものが魔力の塊。肉体に見える外見は仮初めの姿に過ぎず、実体を持たなくともその存在を維持できるのだ。格が違いすぎる。
「しっ、失礼を……」
「あー、そういうのやめてよ。アタシだって友達欲しいんだよ? 仰々しいのは嫌なんだよ」
 パラッと、顔を覆っていたローブを剥いで、その素顔を晒す彼女であったが……マグとしてはその扱いに非常に困惑した。目上の者が幾ら気さくに接してきても、目下の者はどうしても畏まってしまうもの。増して相手は自分から見れば、雲の上の……いや、その更に上の存在。気楽にと言われても無理である。
「どうしたの?」
「あ、いや……存外に幼いお顔立ち……もとい、顔立ちだから、ビックリ……」
「堅い、堅いよー。まぁ、初対面の上役相手に、いきなりフレンドリーに出来る奴はそう居ないけどね」
(わ、分かってるんじゃないですかぁ……!)
 そんなマグの内心を読んだのか、亜麻色の瞳をクリクリとさせ、金色に輝く髪をフワリとたなびかせながら、彼女は笑った。
「あ、まだ名乗ってなかったね。アタシ、マーベルって名乗ってるの。本名は忘れちゃった、だって400年も経ってるんだもん」
「よっ、400!! わ、私なんか、赤ん坊以下……!!」
「あー、若作りのお婆ちゃんだと思ったでしょ!?」
「そ、そんな事……! し、しかし、400年も存在し続けている重鎮の方が、何故こんな辺鄙なところに……?」
 そんな、驚愕に満ちたマグの台詞を聞いて、マーベルはケラケラと笑う。
「400年なんて、悪魔の世界じゃ、やっとオムツの取れた子供と同じだよ。大魔王様なんて、何千年も存在し続けてるのよ?」
「計り知れない……もう、たった16年生きただけで『疲れたー!』とか弱音吐いてる私が、バカみたいじゃないですかぁ!」
「……そう、その調子だよ。打ち解けて、仲良くしてくれると嬉しいな。で、アナタ……名前は?」
「あ……ま、マグ! マグって言います! い、一応……ヴァンパイアです」
 その自己紹介を聞いて、マーベルはふんふんと頷いた。と言うか、彼女にとってはマグの種族など、どうでも良かったのだ。
「マグ、かぁ……可愛い名前だね。ねぇ、ここに来てどれぐらい経つの?」
「まだ10日です。10日前に、ちょっと間抜けな事が原因で、そのぉ……」
 言いよどむマグの顔にグッと接近して、マーベルはその目を見据える。ハッキリ言え、と催促しているのだ。
「……恥ずかしい話なんですが、人間の男を相手に契約を迫ったところ、その男が酒に酔っていて……本来ならばこちらが首に刻印を残すところを、逆に刻印を付けられてしまって……」
 真っ赤になりながら、マグは真相を暴露した。しかし、意外にもマーベルはその話を聞いて、深刻な顔になっていた。
「……ふぅーん……ちょっとそれ、洒落にならないねぇ」
「え……?」
「人間は、刻印の解除の仕方を知らない……っていうか刻印を消せない。つまり、その人間が死んだ後も、ずっとその人間に付けられた刻印は消えない。それって分かる?」
「……!!」
 サーっと、マグの顔から血の気が引いた。マーベルの台詞の意味を、一瞬で理解できたからだ。
「け、消し方を教えても!?」
「無理だね。あの刻印、どちらかに魔力があれば『契約の儀式』の動作だけで発動しちゃうんだけど、付けた本人の魔力でしか消せないの。つまり、魔力の無い人間に、消す事は出来ないって事。だから厄介なのよねー……」
「じゃ、じゃあ……やはり……」
「そう。それを消すには、マグが故郷に帰ることを諦めて人間になるか、あるいは……」
 『あるいは……』? という事は、他にまだ手段があるって事? と、マグはマーベルの目を見据えて、次の言葉を待った。
「……上級魔……まぁ、ぶっちゃけて言うとアタシみたいなのが、その人間の存在を『抹消』して、契約そのものを『無かった事』にしてしまう事。簡単でしょ?」
 マーベルはそれまでの深刻な雰囲気を一気に払いのけて、アッサリと言ってのけた。流石は魔女、人間の命を左右する事など朝飯前だぞ、と云う事なのだ。
「ただ、それには……刻印を受けた者……この場合はマグ、アナタの承諾が必要になるの。どう?」
 『どう?』と、いきなり言われても……相手が人間とはいえ、流石に簡単にその存在を『抹消』してしまうのはどうだろう……と、マグは躊躇いを見せた。
「……そりゃそうだよねー、簡単な事じゃないよね。だから、洒落にならないんだよ」
「そ、そうですね……」
「ただ、消す事自体は簡単だから、消したくなったらいつでも言ってね?」
「……覚えときます」
 幾ら、毎日セクハラ攻撃をしてくる相手であっても、その命を云々するというレベルになってくると、流石に躊躇してしまう。しかし、心強い味方が出来た事も同時に自覚したマグは、幾分か気が楽になったのか、先程までの暗い表情は影を潜め、久しぶりに笑顔を取り戻していた。
「ところでぇ……」
「え?」
「震えが止まってるね、いつの間にか」
「あ、そういえば……!」
 相手が上級魔である事は分かっているのだが、いつの間にか打ち解けてしまっている事に気付いて、マグは自分の意外な順応性の高さに驚いていた。そんな彼女を見て、マーベルも『うんうん』と頷き、笑みを零していた。

**********

 マーベルとの出会いがマグのネガティブ思考を抑え込んだのか、少なくとも『消えてしまいたい』等と考える事は無くなっていた。が、低いモチベーションは相変わらずであり、ヴァンパイアとして能力を発揮する為の修練もろくにせず、ただ徒に毎日を過ごしていた。
「おーい、嬢ちゃん」
「マグですよ、いい加減に覚えてください……何か用ですか? 添い寝の相手ならお断りですよ?」
「おいおい、俺にだってケジメはあるんだぜ……ちょっと出掛ける、留守番頼む」
「え? あ、ハイ……」
 バッカスの意外な言動に、マグは思わず驚いてしまった。あの男が、欲求を満たす以外の用事で自分に声を掛けたのは初めてだなぁ……と。
「朝には帰る。ちゃんと戸締りしろよ、この辺りも物騒だからな」
「は、ハァ……」
 今までスケベなイメージしかマグに与えなかった彼が、今日は何故か彼女には興味を示さず、ドアの外に消えたのだ。珍しいなんて印象を通り越して、もはや不思議な感じであった。
(ま、いいか。久しぶりに、ゆっくり眠れるって事だもんね……)
 そういえば、一人でゆっくりと過ごす夜なんて暫くぶりだな・・・と、マグは久々の開放感に浸っていた。
(……ヴァンパイアが、夜中にベッドで眠るなんて……すっかり人間に感化されてるなぁ、私……)
 マーベルから聞かされた事実によって、バッカスを『抹消』しない限り、ヴァンパイアとしてどれだけ強力になっても、もう故郷には戻れない事が分かってしまった為か、マグはすっかり当初の目的を諦めてしまっていたのだ。
(マーベルに頼んでアイツを消してもらうのは簡単。けど、アイツを消したところで、私が別な人間を降せる保証なんか、何処にも無い……)
 それが本音なのか、修行を怠る為の建前なのかは分からなかった。だが、マグがすっかりヴァンパイアとして再起する事を諦めている事だけは確かだった。彼女はむしろ故郷に帰る事よりも、このままこの世界に居ついて過ごす事を望み始めていたのだ。元々、頑張るという事が苦手な彼女が、更に『頑張っても無駄』という現実を知ってしまったのだから、無理も無い事だが。
 そして、いつの間にか彼女はまどろみの中に身を任せ、気づいた時には東の空が白々と明るくなり始めていた。
「あ……寝ちゃったんだ……」
 バッカスの視線が無いという安心感からか、早い時刻から眠ってしまったようで、普段であればまず目覚めないであろう早朝の空気の中に、彼女は身を投じていた。開放した窓から入り込んでくる、まだ冷たい風が肌に心地良い。
(そうだ、せっかくアイツが居ないんだし……今のうちに、ゆっくりと水浴でも……)
 マグは普段は視線が気になってロクに出来ない入浴を、今のうちに済ませてしまおうと考えたのだ。入浴といっても、シャワーを浴びてのんびりと汗を流す、などという優雅な物ではない。カーテンや衝立などで遮蔽した陰で衣服を脱ぎ、水桶から汲んだ水で布を絞って身体を拭くだけの、簡素な物ではあったが……それでも充分に爽快感は味わえる。彼女はその一時の快楽を求め、水桶の前へと歩を進めた。今なら、衝立を用意する必要も無く、心行くまで身体を拭く事が出来るので、ウキウキしていたのだ。ところが……
(……えっ!?)
 出入り口のドアのすぐ内側に、ボロボロになったバッカスが倒れていたのだ。
「ちょ……ちょっと! どうしたんですか!?」
 普段の仕打ちをすっかり忘れ、マグは慌ててバッカスの傍に駆け寄った。と、彼はほんの少しだけ薄目を開けたかと思ったら、短く唸り声を上げ、再び寝息を立て始めた。見ると、ボロボロ……というよりはドロドロという表現の方がしっくり来る感じで、特に怪我をしている様子も無かった。しかし、マグがふと彼の横に落ちているズタ袋に目をやると、そこには金貨と一緒に、幾ばくかの食料が入っていた。
「一体、何があったの……? この人は、何処で何をしてきたの……?」
 疑問は尽きなかったが、この場はとりあえず、彼をそっとしておいてやるのが最良の措置であると判断したマグは、ベッドから毛布を持ってきて彼の身体に掛けてやった。出来れば寝床まで運んでやりたいところだったが、ドロドロになった彼を、そのまま室内に運び入れたりすれば、恐らく後で叱られるのは彼女の方だ。ならば、その場にそっとしておく方が良いだろうと考えたのだ。それに、下手に動かせば折角の睡眠を妨げてしまうかも知れないし、第一、マグの力では彼を支える事はできない。
「……後で、それとなく聞く事にしよう……それより、この人が目覚める前に、身体を綺麗に……」
 些か状況は変わったが、それでもまだ彼女の自由が奪われたわけでは無い。彼は帰宅したとはいえ、今は深い眠りの最中。今というこの瞬間を逃しては、この先いつ同じチャンスが巡ってくるかは分からないのだ。
(……衝立が欲しいけど……だ、大丈夫だよね。ぐっすり寝てるし……)
 万一の事を考え、マグは衝立を用意しようと考えたのだが、あいにくバッカスが衝立に寄り掛かるような格好で邪魔になっているため、彼女はそれを諦めるしかなかった。
 そして暫し後、衣服をすっかり脱いだマグは、なるべく音を立てないように、そして視線は常にあの男に向けて警戒を怠らないように……と注意を払いながら水浴を始めた。しかし、そのあまりの爽快感にウットリとして緊張を解いた彼女は、そちらの方に夢中になってしまっていた。が、その刹那……
「……今日は随分と、サービスが良いんだなぁ?」
「……!!」
 背後から聞こえる、まさかの声。そう、水音で目を覚ましたバッカスが、マグの姿を眺めていたのだ。
「あっち向いて! このスケベ!!」
 涙目になって羞恥心を露にし、隠れ場の無い場所で必死に両手を駆使して、マグは何とか身体を隠そうとした。その口から些か乱暴な言葉が飛び出したとしても、無理からぬ事だろう。だが、意外にもそのリアクションにムッとしたバッカスが、直前の発言に異を唱えた。
「覗くつもりなら、声を掛けたりしないで、息を殺してジッと眺めてると思うぞ?」
「……!!」
「生憎、今は全身がガタガタでな。自力で寝返りを打つ事も出来んのさ。首がそっちを向いたままなのはその所為だ……許せ」
「ご、ごめんなさい……」
 省みれば、この状況を作り出したのは自分自身。ここで彼を悪役にするのは、あまりに身勝手……そう反省したマグは、今度は控え目に彼に願いを伝えていた。
「あの、申し訳ないんですけど……服を着るまでの暫しの間、目を閉じていてはもらえませんか……?」
「……目、瞑んなきゃダメ?」
「……やっぱりスケベじゃないですか」
「冗談の通じん奴だな」
 短いやり取りを交わし、急いで身づくろいを済ませたマグが改めてバッカスの傍に近付くと、彼は再び眠りに落ちていた。
(……私の運が悪いのか、この人の運が良すぎるのか……あのタイミングで目が覚めるなんて、まったく……)
 結果として、一方的に大サービスをする羽目になったマグが不満げに呟く。しかし彼を責める事は、彼女には出来ない。今回は全面的に彼女のミスがあの結果を招いたのだ。
(いま見られた分は、授業料を払ったと思って忘れる事にしよう……)
 恥はかいたが、警戒心を強く持てという事を今の一件は思い出させてくれた……そう考え直し、いかにも眠りにくそうな場所で気持ち良さそうに寝息を立てるバッカスをチラリと一瞥しながら、マグはその場を離れた。これ以上、彼の安眠を妨害するのはまずいと思ったのだろう。
 そして太陽が天高く昇った昼下がり、バッカスは再び目を覚ました。
「ん? 夕べ? 食い扶持を稼ぎに行っていたのさ。夜中の方が、給金が高いんだよ。危ねぇ仕事が多いけどな」
「仕事……働く、って事……?」
「そうだよ。稼がなきゃ、お前の飯だって買えないだろう?」
「……!!」
 この人もキチンと、そんな事を考えていたのか……と、マグはバッカスの事を見直していた。ずっと不真面目で、自分にとって不快の対象でしかなかったその男との距離が、ほんの少し縮まった瞬間であった。

**********

「……へぇ、そんな事があったんだ……」
 その夜マグは、いつもの待ち合わせ場所で、昼間の出来事をマーベルに報告していた。報告というより相談に近いニュアンスであったが、とにかくこの事をマーベルの耳に入れておきたい……という衝動が、マグを動かしていたのだろう。それだけ、先程バッカスが見せた一連の事実は、彼女にとってセンセーショナルな事だったのだ。
「もうビックリですよ、あんなに不真面目でスケベなのに、急に真面目な事をやり出したりして……」
「あら、それは違うよ?」
「え?」
 身体を固定せずに宙に浮いている所為で、上下逆さまになった状態で座った格好になったマーベルが、興奮状態で喋り続けるマグの台詞を遮り、会話の主導権を握った。
「彼の住んでいる家と、その身なりを見て御覧なさい。決して裕福ではないけれど、みすぼらしくもないでしょう? これは、彼がある程度安定した収入を得ている証拠。そして、それを維持し続けるには、それなりのモチベーション維持も不可欠……」
「あ……そういえば」
 色々と思い当たる節があるのか、マグは声のトーンを落として考え込んだ。
「つまり、今朝マグが見た彼の姿は、彼にとっての当たり前……いつもやっている事に過ぎなかったという訳だね」
「じゃ、じゃあ……いつものあの不真面目な態度は、芝居だという事に……?」
 その質問に、ちょっと困ったような顔をしながらも、マーベルははぐらかさずにキチッと答えた。
「そうとも言えないね。むしろ、真面目に働いている顔の方が芝居なのかも知れない……」
「え? ど、どういう意味ですか!?」
「マグ、アナタは本当に気の許せる相手の前で、わざわざ体裁を整えたりする?」
「……!!」
 短い一言だったが、それでもそれはマグの疑問を解決するのに充分な威力を持っていた。が……逆に今度は、その一言によってマグの心に新たな疑問が浮かび上がった。
「私の前でなら、遠慮は要らないと……?」
「んー……私は彼じゃないからねぇ、そこまでは……ただね? 警戒心を持ってたら、添い寝なんか……ねだらないんじゃないかな?」
「スケベなだけですよ」
「アハハ……まぁ、それは間違いないね」
 ぷぅっと頬を膨らませて拗ねてみせるマグに対し、マーベルはケラケラと笑った。そしてバッカスは、その人格の正否はどうであれ、ともかくスケベであるという事実だけは肯定されてしまった。尤も、彼がこの会話を聞いていたとしても、その結論に否定はしなかったであろうが。
「んで? マグ……結局アナタは、あの男をどうしたいワケ?」
「……それが、分からなくなっちゃって……今朝の事が無かったら、消すよ? という問いには『はい』と答えられたんですけど……」
「意外な一面を見て、迷いが出たか……ま、良い経験かもね。納得行くまで悩みなさい。それも勉強の一つだよ」
「はぁい……」
 バッカスが見せた意外な一面とマーベルの意見によって、マグはいま自分が置かれている立場が非常に恥ずかしい物だと気付いた。しかし、今の彼女には為す術がなく、自分はどうするべきなのか、それを真剣に考える以外に活路を見出す策は無かった。
(あの男も、ふざけた顔をしながらも……真剣に生きている。それに比べ、私は……?)
 ろくに努力もせず闇雲に足掻いた挙句に、結果が出ない事ばかりを悔やんで周りに当り散らし、自分を正当化して慰める……これで望み通りの結果が得られるなら誰も苦労などしはしない。それは判ってはいるが、では具体的にどうすれば良いのか……それが判らないのだ。
(頑張る……って、何を頑張ればいいの? どう足掻いたって、私はもう故郷へは帰れない。だって、私が故郷に帰るには、あの男を抹消するしかないんだもん……でも、彼にだって生きる権利がある。私のワガママで、それを取り上げる事は出来ない……)
 経緯がどうであれ、彼と主従関係を結んでしまった事実はもう覆らない。そもそもあの時、酔っ払いが相手なら口八丁で言いくるめて、労せずして実績を作れるなどと考えた自分に非がある……考えれば考えるほど、マグの心の中にある迷路の出口は遠くなっていくのだった。

**********

「おい嬢ちゃん、あまり遠くに行くんじゃねぇぞ?」
「……いつになったら、私の名前を覚えるんですか? それとも、名前で呼ぶ気が無いんですか?」
 ある昼下がり、マグは珍しくバッカスに連れられて街を歩いていた。道行く人は皆、好奇の目でマグの顔を眺めている。何を好き好んで、あの好色男に付いて歩いているのか……? という事だろう。だが、自分への飛び火は嫌と見えて、遠巻きに見るだけで、話し掛ける者は誰一人として居ない。バッカスが商品を求めて店主に話し掛けても、彼とは目を合わせようとせずに、最低限の対話だけで事を済ませようとしている。これが先入観……普段から植え付けられたイメージというものなのだなと、マグは肩を竦めた。
「寂しい物ですね」
「ん? あぁ、慣れてるさ。いいんだよ、ギブ・アンド・テイクが成り立てば文句は無い」
 冷めた回答だった。バッカス自身が自らの置かれた立場を冷静に分析した結果であろうが、それはあまりにも寂しすぎる、自虐に近い回答であった。
「まぁ、俺の場合は……自分で蒔いた種だからなぁ、文句を言う事自体がそもそも、筋違いなんだがよ」
 目深に被った帽子の影から片目だけを不気味に光らせて、彼は街を行く人々を逆にせせら笑うかのように呟いた。それを見たマグは、先程とはニュアンスを変えてバッカスに問い掛けた。
「……寂しく……ないですか?」
「なんで?」
「いや……なんとなく、です」
「変な奴だな」
「アナタにだけは、言われたくないです」
 そのリアクションに、バッカスは声を上げて笑った。ちげえねぇ、と。
「何で……そこで笑えるんです?」
「俺以上に変な奴なんて、そうは居ないだろ? 強いて言えば……」
「……!! わ、私だって言うんですか!?」
「違うのか?」
 バッカスの意外すぎる切り返しは、マグの理解の範疇を越えていた。なぜ自分が変人に変人扱いされるのか? とてもではないが納得できる回答ではなかった。が、続くバッカスの台詞は、更に彼女を唖然とさせた。
「だって、札付きの変人である俺からずっと離れないで、一緒に寝泊りまで出来る女の子なんざぁ、他には居ないだろ?」
「なっ……! そ、そうせざるを得ない状況を作ったのは、アナタ自身じゃないですか!!」
「え? ……俺が? ハテ、俺、嬢ちゃんに何かしたかなぁ?」
「……!! こっ、この『契りの刻印』の所為で、私はアナタから離れられないんですよ? それをまさか、忘れていた……とか!?」
「それ、タトゥーじゃなかったのか?」
 何と、バッカスは自分が付けた『刻印』の事をすっかり忘れて……と言うより、最初から認識していなかったと言った方が正解だろう。とにかく、マグが何故、自分から離れずにずっと一緒に居るのか分からない……つまり彼の視点からは、マグの方が彼にくっついているように見えていたのだ。
「あ、あは、あは……あははははは……」
「ど、どうした嬢ちゃん、気でも触れたか?」
「呆れ果てて、もう何も言えない……」
「わっかんねぇなぁ……」
 然もありなん。バッカスはマグに契約を迫られた際、既に酩酊していた。その時の言動すら記憶に残っているかどうか怪しい状況で、正気を取り戻した時には、何故か女の子を抱き抱えて寝ていた……という感じだったのだ。これで、マグが何故バッカスから離れる事が出来ないのかを、理解しろという方が無理である。
「何よそれ……これじゃまるで、私だけが空回りして……馬鹿みたいじゃない……いや、馬鹿そのものだよ。自分を虜にした本人が、その事を認識していないなんて……これ以上の馬鹿な話は無いわ……あはははははは!!」
「なぁ嬢ちゃんよ、俺が嬢ちゃんに何かしでかして、それが原因で自由を奪われてるってぇんなら、説明してくんな。その言い方じゃ、俺が大悪党みたいに聞こえて気分が悪りぃや」
「……いいでしょう、説明しましょう……ただ、説明したところで、何の解決にもなりはしませんけどね……」
 泣き笑いの表情のまま、溢れる涙を拭おうともせずに、マグは語り出した。自分が唐突にバッカスに捕獲され、接近した事を好機と考えて短時間だけ虜にしてすぐに開放し、故郷に帰る資格を手に入れたら、サッサと人間界から去ろうとしていた事から始まり、バッカスを『抹消』しない限りは、元の世界へ戻る事も出来ないという事も含めた全てを。
「じゃ、何かい? 嬢ちゃんがヴァンパイアだって言うアレ、ジョークじゃなかったのかい!?」
「そんな寒いジョーク、誰が言うもんですか!!」
「ハァ……なんとまぁ、そんな事情だったとはねぇ……道理で、いくら嫌がらせをしても出て行かなかった訳だ」
「……!! あ、あれ、わざとだったんですか!?」
 そうだよ、とアッサリ頷いたバッカスを見て、マグは頭の中で何かが切れる音を確実に聞いた。刹那、彼女は怒りに満ちた瞳でバッカスを睨みつけ、何かを必死で堪えるような表情を見せた後、ダッとその場を走り去った。
「……やっぱ、俺が悪いのか?」
 いかにもバツの悪そうな表情を湛えたバッカスだけが、そこに残された。彼は自問自答を繰り返しながら、どうすれば汚名を返上できるか、それについて考え込んでしまった。

**********

(……許せない……許すもんですか! マーベルにお願いして、すぐにでもあの男を『抹消』してもらうんだ……)
 それだけを頭の中で繰り返しながら、マグは街外れにある崩れかけた廃屋の中で、身を屈めていた。今すぐにでもマーベルと連絡を取りたいのは山々であったが、彼女が人型を形成して対話が可能になるのは夜間に限られる為、日が暮れるまで待つ必要があったのだ。
(故郷に帰るとか、そんなのはもう、どうでもいい……とにかくあの男との繋がりを、一刻も早く消し去りたい!)
 刻印を消した後の過ごし方など、全く考えていなかった。とにかく、この不愉快さを早く何とかして、清々したい……マグの頭の中は、その事だけで一杯になっていた。
(夕方かぁ……日暮れまでもう少しだ。月が昇ったら、マーベルに来てもらうんだ。そうすれば……)
 と、そんな事を考えていた時、同じ廃屋の中に一人の男の子が入り込んで来た。
「へへっ、この中なら見付からないだろう!」
 男の子は、その手にオモチャのピストルを携え、顔を覆面に見立てたハンカチで覆っている。恐らく、ギャングかガンマンの真似事でもやっているのだろう。程なくして、その子の友達と思しき男の子達が、やはり同じような姿で廃屋の傍まで近寄ってきて、キョロキョロと周辺を探し始めた。
「こっちに逃げて来たと思ったんだけどなぁ……」
「もしかしたら、この中かも!」
 徒党を組んだ男の子の一人が、廃屋を指差して指摘する。その声を聞いて、隠れていた男の子が更に奥へと身を隠そうとして、身を屈めながらジリジリと移動を始める。そしてその先には、マグの姿があった。
(ちょっとぉ、先客がいるのよ? もう……)
 無論、男の子はマグがそこに居る事を知らないので、そのままジリジリと前進してくる。しかし、マグとしてもそこを動く事は出来ない。彼女は建物の奥で、壁を背にして座っていたからである。
「あー、犯人に告ぐぅ! 君は完全に包囲されている、速やかに武器を捨てて出て来なさい!」
 どうやら、屋内の男の子が逃走中の犯人役で、周囲の男の子達がそれを追う警官に扮しているらしい。実に少年らしい遊び方であったが、今のマグにとっては迷惑この上ない事だった。
(もう! あっち行ってよ! 今は誰にも邪魔されたく……ん?)
 少年が壁に背を付けて銃を身構える真似事をした瞬間……彼の頭上の壁の破片が、パラリと落ちて来たのだ。ハッとして、マグが天井を見上げると、少年の直上の壁が崩れかけ、既に一部は骨組から剥離して、落下を始めていた。
「危ないっ!!」
 言うが早いか、咄嗟に身を乗り出したマグに突き飛ばされ、少年は瓦礫の直撃を回避していた。見ると、少年はすっかり顔面蒼白になり、ガタガタと震えている。
「……大丈夫?」
「う、うん……あっ! お姉ちゃん! 上!」
「……!!」
 先程の崩落でバランスを失った柱が、彼女達の方に倒れてくるのが目に入った。回避に移ろうとしたマグだったが、少年を置いては行けない。と言って、先程のように助走を付けて慣性に頼る事も出来ない。マグの腕力では少年を抱き抱えて逃げる事も出来ない。まさに万事休す……彼女は最後の手段として、自らの身体を盾にして、少年に掛かる衝撃を最低限に抑えようと試み、その身体を包み込むようにして蹲った。
(……?)
 次の瞬間、自分に圧し掛かってくるであろう重圧と激痛は感じられず、少量の小石がパラパラと落ちてくるだけだった。どうしたのだろう……と、マグは顔を上げて様子を伺った。すると……
「……無事か?」
「……!!」
 何と、バッカスが倒れてくる柱を支え、彼女達を守っていたのだった。
「動けるなら、早くそこをどけ……長くは持たん!!」
「はっ、はい!!」
 すっかり腰の抜けた少年の体を引き摺るようにして、マグはその場を離れた。それを見届けると、バッカスは一瞬だけニヤリと笑みを浮かべ、そのまま力尽きたかのように倒れた。そして、その身体の上には、柱と無数の瓦礫が容赦なく降り注ぎ、彼の姿をすっかり覆い隠してしまった。
「誰かぁ! 誰か来て!! 生き埋めだ、おじさんが壊れた家の下敷きになった!!」
 先程マグに助けられた少年が、近くに居る大人に救助を求めに走った。程なくして数名の男手が集まり、その後を追うようにして野次馬が群がった。そしてバッカスの身体は瓦礫の下から引き出されたが、彼は既に虫の息だった。
「……おい、坊主……」
 瀕死の重傷であるにも拘らず、バッカスは大人を呼びに走った少年に声を掛けた。
「……オッサンじゃねぇ、俺はまだお兄さん……だ……」
「そ、そんな事に拘ってる場合じゃないです!!」
 医者と思しき男性がバッカスの様子を見ているが、どうも芳しくは無いらしい。首を横に振り、そっと彼の傍を離れていった。
「……なぁ、嬢ちゃん……」
「喋らないで! 身体に障ります!」
「……俺が……ゲフッ! ……居なくなれば、嬢ちゃんは自由に……なれるん……だろ?」
「た、確かにそれは……でも……でも!!」
 マグは揺れていた。激しく揺れていた。目の前で倒れている男は、確かに自分にとって迷惑な存在であり、その存在が消えれば自分は自由になれる。だが、本当にそれでいいのか? と。
「……だったら、迷う事は……無ぇじゃねえか。ほれ、早くしないと……悪魔に引き渡す前に、死んじまう……ぞ……」
「……!!」
 冗談じゃない……貸しを作る形で逝かれてたまるか! と言わんばかりに、マグは嘗て無いほどの力を発揮し、バッカスを救う為に奮闘した。
「……何……してる?」
「動かないで……」
 マグは、バッカスの首筋に牙を付き立てた。吸血鬼は血液を吸う代わりに、自分の体液を相手の体内に流し込む。その殆どの場合は毒素なのだが、彼女達の一族は違っており、血を吸う事で減退する相手の体力を補う為、治癒能力を高める効能を持った薬物を送り込む事が出来るのだ。既に彼の身体からは大量の血が流れ出ている為、その行為は一か八かの大博打だったが……放置しておいても彼は逝ってしまう。ならば……と、彼女は決断したのだった。
(出来るだけ、血を吸わないようにして……このままジッとしていれば、私の体液だけが流れ込むはず……)
 時間にして数十秒というところだろうか。野次馬がざわめきながら見守る中、マグはバッカスの首筋に吸い付いたままジッとしていた。そして彼女は、バッカスの身体を抱き抱えると、そのままスゥッと宙に浮き、飛び去ってしまった。
「え……?」
「そ、空を飛んだ……!?」
 残された野次馬は皆、夢でも見ていたかのように呆然と……マグたちが飛び去った後の空を見上げていた。

**********

「……アレで、本当に良かったの?」
「あのまま逝かれちゃ、気分が悪いから……それだけです」
「素直じゃないねぇ」
「本音です」
 そう言いつつも、仄かに頬を染めているマグの横顔を見て、マーベルはニヤニヤと笑った。
「で、順調なワケ?」
「ええ、まぁ……包帯を取り替える時に、胸を触る元気があるんだから……もう心配は無いですよ」
 マグは皮肉を込めて、現状を報告した。
 あれから1ヵ月半、医者もさじを投げた程の重症患者であったにも拘らず、バッカスは順調な回復振りを見せた。内臓が無傷であり、栄養の摂取に支障がなかった事が彼にとっての最大の幸運と言えた。四肢の骨折と全身打撲で暫くの間は絶対安静を余儀なくされたが、マグが彼の体内に植え付けたヴァンパイアの体液によって、通常では考えられない程の速度で傷が癒えていき、今では彼女のぼやきの通り、悪戯が出来る程にまで回復していたのだ。しかし、そこに至るまでの道のりは決して平坦ではなく、事故の直後は自力で水も飲めない状態だったので、マグが口移しで彼に水を飲ませた程であった。
(……まさか、あんなに必死になれるなんて……自分でも不思議に思う……)
 今、バッカスはまだベッドの上から動けない状態なので、彼の身の回りの世話や生活費の捻出などは、全てマグの手によって行われていた。これまで労働など体験した事の無い彼女は、最初は戸惑いを見せ、迷惑を掛けて回ったが、それもほんの僅かな期間で克服し、今では見事に周囲に馴染み、立派にコミュニケーションも取れるようになっていた。なお、彼女がヴァンパイアである事も既に周知の事実として知れ渡っていたが、無害どころか、逆に人助けまでしてしまう子が悪魔なんかであるはずが無い、むしろ天使であると言われ、すっかり街の人気者として定着していたのだった。
 また、バッカス本人もあの一件で汚名返上が叶ったようで、少なくとも店先で彼の名を出した途端に門前払い、という扱いはされなくなった。ただし、これはマグが彼の代理で色々と取り仕切っている所為もあるのだろう。女性陣には相変わらず敬遠されている様子であり、中には本気でマグの事を心配している者も居るぐらいだった。
「でも……いいの? これだと、主従関係はそのままだよ? 家に帰れないんだよ?」
「いいんです。他者の人生を無かった事にしてまで自分の不始末を有耶無耶にしたくはないし、それだと私自身、悔いが残ると思いますから。それに……」
「それに?」
「私の家は、もう……ここにありますから」
 照れ臭そうに、それでいて堂々と言い切ったマグの肩を、マーベルがポンポンと叩きながらニッコリ微笑んでいた。
「あ! か、勘違いしないで下さいね!? 彼を抹消してまで故郷に帰るわけには行かないっていうか、その……仕方なく……」
「分かってるよ、一生付き合う覚悟が出来た、って事でしょ?」
「むー! その言い方、間違ってないけど……納得したくないです」
「アハハハ……」
 仕方なくと言った割りには、顔は笑ってるよ……という一言を胸に仕舞って、マーベルは明るく笑みを漏らすのみであった。

**********

「おーい、嬢ちゃん。喉が乾いたぞー!」
「マグですよ、マ・グ! もぉ……いい加減、覚えてくださいよぉ」
「何? 名前で呼んで欲しいのか?」
「……バカ……」

 口ばかりの悪態をついて、拗ねて見せるマグ。だが、その表情には笑みが浮かんでいるのであった。

<了>






久方ぶりに、完全オリジナルの短編を書いてみました。
……いや、サイドストーリーでない、オリジナルの短編って初めてですね。いつも外伝ですからね。
内容としては、当たり障りの無い恋愛物なんですけど、そこに自分としては初めて『人間ではない』主人公を据えてみました。
それでいて、ファンタジー路線になり切ってない辺りが、いかにも私らしいと言えば私らしいのですが(笑)

現在、長編の方でファンタジー物に挑戦しています。
そちらの完成がいつになるか、その見通しは立ってないんですけど……ま、気長にお待ち頂ければ幸いです。
(2012年5月17日)


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