選べぬ相手
「凜! いつまで食べてんだい! 晃ちゃん、待ってるよ!?」「いいですよ、おばさん。遅刻しそうになったら、勝手に先に行きますから」
未だに台所で朝食をかき込んでいる少年……凜(りん)に向かって、彼の母親が大声を上げる。その声を、凜の幼馴染である少女……晃(あきら)が、苦笑いを浮かべながら制止していた。
「ホントにねぇ……いつも時間ギリギリまで野球の練習してるのは分かるけど、その後に食べる朝ごはんの量を計算に入れてないんだから」
「うっせぇなぁ、母さんは黙っててくれよ!」
「リン、お母さんに対してその口の聞き方は感心できないよ?」
「う……ほっといてくれよ、晃! 家庭の事情って奴に口を出すな!」
まだ口をモゴモゴと動かし、食後のデザートと思しきリンゴを片手に握って、無造作に鞄を肩に背負いながら、漸く玄関先に顔を出す凜。その頬には、米粒が幾つもくっついたままだ。
「……キミは昭和時代の漫画の主人公かい? こんなお約束なスタイルで登場する奴、もはや化石モンだよ?」
「いちいち煩いな、お前こそ世話焼き気取りのヒロインのつもりかよ!」
こんなやり取りも、もはや彼らにとっては日常の挨拶と同じであった。つまり、ケンカするほどに仲がいい……という言葉をそのまま具現化したような間柄なのである。
「こら、凜! 歯磨きはどうしたんだい!」
「学校で磨くからいいよ! まだ朝飯は済んじゃいないんだ!」
そう背中で応え、玄関を出る凜。そんな彼を呆れ顔で眺めながら嘆く母親に『後は任せて』と云う感じでジェスチャーしながら、晃が後に続く。しかし、詰めが甘い。玄関のドアは二人が出て行った後も開放されたままだった。
「やれやれ……晃ちゃんも、そそっかしい所は昔と変わらないねぇ」
言いながら、開いたままの玄関ドアを閉める母親。しかし、その顔には笑みが浮かんでいた。幾つになっても、子供の頃の姿を思い出して笑えるのは、親の特権だねぇ……と。
そして彼女が台所に戻ると、たった今出掛けた息子が持っていくべきだった弁当箱が、テーブルの上に放置されたままになっていた。それを見て、彼女はまた呆れ顔に戻る。
「全く、誰に似たんだか……」
「おーい、タオルが無いじゃないか! これじゃ顔が拭けないぞ!」
「あなた! ちゃんとタオル掛けを確認してから顔を洗うようにと、いつも言っている筈でしょ!」
洗面所から聞こえてくる夫の声に、軽い頭痛を覚えながら毎度おなじみの文句を返す母親。そして彼女は確信していた。凜の慌てん坊は、父親譲りに間違いないな……と。
**********
「……歩きながら食べるの、行儀が悪いよ?」
「うっせぇな、ほっとけよ。大体、食べ歩きがみっともないってんなら、屋台のクレープ食ってる女どもは何なんだよ?」
持ち出してきたリンゴを丸かじりしながら、隣を歩く晃に文句を返す凜。しかし、その目線は宙を泳ぎ、ぶっきら棒な態度を取ってしまった事をどうやってフォローしようかと、迷っているようだった。
「全く……アンタだって黙ってれば結構イケてんだからさ、もっとちゃんとしなよ。女子にモテないよ?」
「う、うっさい! 大きなお世話だっ!」
お前以外の女子から向けられる好意なんか、邪魔なだけなんだ……と、大多数のシングル男子が聞いたら袋叩きに遭いそうなモノローグを頭の中に展開させる凜だったが、それを口に出せない……いや、出すチャンスをいつも逃している、と言った方が正解だろう。何故なら、彼としても晃に対するアプローチを全くしていない訳ではなかったからだ。彼女から厚意を受ければ礼の後に褒め言葉を添えたり、誕生日には毎年欠かさずプレゼントを用意したりと、マメに行動に移してはいた。ただ、そのやり方があまりに下手すぎる為、上手く真意が伝わらないだけなのだ。
それに、彼は実は密かに女子の間で好評を集めており、実際に告白された回数もかなりあった。が、あくまで彼の本命は晃ただ一人。申し訳ないとは思いつつも『好きな人が居るから』と言って、告白される度に丁重に断っているのだ。その事実と、幼馴染という間柄が邪魔をして、二人を恋人同士にするチャンスはどんどん遠ざかっていたのだった。
**********
その日の学校帰り、弁当を忘れた凜に自らの昼食を分け与えた所為で非常に空腹だった晃は、その欲求を満たす為、表通りのコンビニに立ち寄った。が、会計の為にカウンターに行くと、そこに立っていた店員の胸には『研修中』の文字が。あぁ、これは少し時間が掛かるな……と思った晃だったが、誰でも最初は下手なんだ、我慢しなきゃ……と、その新米店員の手先に注目し、会計が済むのを待った。しかし……
「あ、あれ? おかしいな……あ、ス、スミマセン! 少々お待ち下さい……」
……下手にも程がある。幾ら不慣れとは言え、会計に10分も掛かるのは流石に度が過ぎているだろう。ふと気付けば、晃の後ろには既に長蛇の列が。それを見て、新米店員は益々焦り、パニック状態に陥っていくのが分かる。
「あぁもう! 貸しなさい! いい? スキャナーをこんな角度で当てたって、読み込む訳が無いでしょ! それに、袋物の場合は、しっかりと皺を伸ばさないとスキャンできないよ! そのぐらい習わなかったの?」
……いつの間にやら、晃がレジのスキャナーを店員から奪い取り、自分でスキャンしつつ、その店員にレクチャーしていた。なお、彼女の後ろに並んでいた他の客はベテラン店員が反対側のレジで対応し、ものの数分で裁き切っていた。
「ホラ! 肉饅とチョコを一緒の袋に入れるバカが居ますか! ちゃんと別の袋を用意するの、分かる?」
普通ならありえない光景である。店員の態度にクレームを付ける客は良く見かけるが、店員にレクチャーする客など滅多に居ないだろう。彼の隣で混雑を回避させたベテラン店員も、その様子を敢えて傍観していた。自分が割り入って解決するより、客に助けられた事実をネタにして説教した方が効くだろう、と考えた為である。
そして会計が終わる頃には、既に20分近い時間が経過していた。新米店員は額の汗を拭いつつ、必死に会計をこなそうと懸命になり、それを指南する晃も夢中だった。そしてハッと気が付くと、肩で息をしながらレジ袋を手渡そうとしている新米店員の頭をポンと叩く、ベテラン店員の姿があった。彼は新人の不手際を謝罪しつつ、やんわりと晃にも注意していた。
「お客様、大変申し訳ありませんでした。新人の教育が至りませんで、ご迷惑をお掛け致しました……しかし、お客様にレジの操作までされてしまいますと、私どもと致しましても、ちょっと……」
「あ、あの、私……す、スミマセン、出しゃばった真似を……ご、ゴメンなさい!」
晃は赤面しながら買い物袋を受け取り、そそくさと店を後にした。無論、その新米店員は後にこってりと絞られる事になるのだが、それはまた別の話である。
**********
翌朝、いつものように並んで登校する晃と凜の姿があった。
「……でね? 気が付いたら私、自分でレジ打ってて、その後で店員さんに叱られちゃったの。恥ずかしかったぁー!」
「何だ、そのヘボ店員は……俺がそこに居たら、怒鳴りつけてやったのに」
晃が昨日の出来事を、顔を赤らめながら凜に話していた。晃としては自分の出しゃばりを戒める意味で凜に話をしていたのだが、凜はここぞとばかりに勇ましさを強調し、話の論点を勘違いしたまま鼻息を荒くしていた。
「怒鳴ったりしたら可哀相だよ。最初は誰でもあんなモンだよ、慣れるまでは叱られるのが当たり前でしょ?」
自分もかなりの勢いで怒鳴っていたのだが、それは高い棚の上。晃は凜のテンションを抑えるように、やんわりとその発言を否定しつつ、店員を庇うような言い方をしていた。それが凜にとっては、少々気に入らなかったらしい。
「……どうしたの? 怒ったような顔をして……何か気に触るような事、言ったかな?」
(お前じゃねぇ! そのヘボ店員に腹が立ったんだよ!)
「ねぇ、リンってば!?」
「……悪い、ついムッとして……お前に怒ったんじゃないんだ、その店員のトロさにイラついただけさ」
凜が腹を立てている理由は、実は彼自身もまだ気付いていなかったが……強力なライバルの出現を予感したからに他ならなかった。無論、その新米店員に惹かれていると晃が言った訳ではない。しかし彼は、その男が後に自分の前に立ちはだかるであろう事を無意識のうちに察知していた……腹立たしさを感じる理由はそれだった。
「……今頃コンビニの前、凄い行列が出来てんじゃねぇか? レジ待ちでさ!」
「まっさかぁ!」
せめてもの腹いせにと、凜の放ったジョークで二人は笑い合った。しかし……凜の心の内は正直、穏やかではなかった。
(……妙な胸騒ぎがしやがる……何なんだ、このイラつきは……くそっ、落ち着かないぜ!)
朝の一時、偶然起こった事件の概要を聞いた……ただそれだけの筈だった。しかし、その何気ない話題が、こんなにも自分の胸に深くめり込んでくるとは思わず……凜は一人、意味不明な苛立ちと戦う羽目になるのだった。
**********
「かじりーん!」
「…………」
「おーい! かじりん!」
「…………」
晃は、ヘッドホンを耳に付け、一人悦に入りながら身体を揺らして拍子を取っている友人の名を呼び続けていた。しかし、そんな状態の相手に、外からの呼び声など届く筈は無い。ならば……と、彼女は強攻策を取る事にした。
(必殺……ヴォリュームアップ!!)
「……………!!」
ヴォリュームボタンの『+』を押し続け、最終的に最大音量まで上げる荒業である。これをマトモに喰らえば、油断をしている時や考え事に没頭している時などは本当に危ない。が、いつも大音量で楽曲を聴き、自ら奏でるギターもアンプのパワーを音が割れるギリギリまで上げないと気が済まない彼女ならば大丈夫。この攻撃を喰らっても、『あービックリした』で済むのである。
「何だ、アキラじゃないか……用があるなら呼びゃあ良いじゃん?」
「何をう? この嗄れ(しゃがれ)声が聞こえぬと申すか?」
そう言って、何度も大声で呼んだ事をアピールする晃。しかし、当の本人……美保は涼しい顔でキョトンとしている。彼女のフルネームは梶原美保と言うのだが、『美保』と名前で呼ばれるのは嫌いらしく、苗字か、自分で考えた『かじりん』という渾名でしか自分の事を呼ばせなかった。
「で、何か用?」
「『何か用?』じゃないよ、アンタも美化委員でしょ? 校舎裏の草むしり、手伝いなよ!」
「あー? あぁ、そっか、わりぃわりぃ、忘れてたわ……彼らのライブが近くてさ、つい……な」
彼女の言う『彼ら』とは、彼女が心酔してやまないヴィジュアル系バンドの事であり、近く、彼らの公演がこの街のホールで行われるらしい。その事は晃も聞いてはいたが、それと委員会の仕事とは関係ない。
「サボっちゃ駄目だよ。ホラ、まだ始まったばかりだから」
「だりぃな〜……こういう仕事こそ、あの熱血バカにお似合いなんじゃねぇの?」
「……その呼び方、やめてあげてよ……相当気にしてたよ?」
「お? やっぱダーリンが相応しくない渾名で呼ばれるのは耐えられないか?」
美保が『熱血バカ』呼ばわりしているのは、言わずと知れた……凜の事である。彼を好みのタイプとする女子は多かったが、彼女としては好きにはなれない……むしろ嫌悪の対象であった為、あのような馬鹿にした呼び方を宛がっているのだった。
「あのねぇ……確かにリンとは幼馴染で仲いいよ。だけど、イコール恋人って訳じゃないんだよ……ってゆーか、幼馴染ゆえに、安易に立ち入れない部分があって……いや、嫌いって訳じゃないんだけど、その……」
自分で語るうちに、照れ臭くなってモジモジと身体をくねらせ始める晃。その言葉の通り、彼女も凜を少なからず気に掛けている部分がある。しかし、幼馴染ゆえの照れが邪魔をしているという点は凜と同じで、どうしても素直に『彼氏』に選ぶ事が出来ないのだ。既に晃をターゲットとして見ている凜とは、ここが異なるのである。
「……って! 違う! く・さ・む・し・り! ……もぉ、こんな事で足止めしようったって無駄だよ?」
「チェッ、バレたか……仕方ねぇ、サクッと片付けっか!」
そう言って苦笑いを浮かべながら、美保は制服からジャージに着替え、渋々と作業に参加した。
**********
「あー、お腹すいたぁ……」
草むしりで身体を酷使した晃は、空腹に眉を顰めていた。そういう状態での帰り道に、唐揚げやおでんなどが美味しそうな匂いを放ち、彼女を誘惑する。そう、表通りのコンビニである。誘惑に負けた彼女は、フラフラと店内に入っていく。すると、そこには先日の彼が立っていた。
「い、いらっしゃいませ!」
向こうも、この間の彼女だな……と気付いたのであろう。晃の姿を見付け、接客の為の笑顔を作るが、少し頬を引きつらせている。また厳しく言われるのだろうか……と、警戒しているのだろう。
(まずいタイミングで入っちゃったなぁ……この間みたいに、お節介焼かないようにしなきゃ……)
晃は自分に『出しゃばるな』と言い聞かせながら、喉を潤す為のスポーツドリンクを掴み、レジに向かった。すると、掃除を中断した彼がカウンター内に駆け込んで来る。やはり会計を担当するのは彼か……と、晃は少々不安を覚えながらドリンクをカウンターに置き、同時に肉饅を二つ注文した。
「は、はい! 少々お待ち下さい……」
彼はまずスキャンしたドリンクを買い物袋に入れた後、トングで蒸し器の中の饅頭を取り出しに掛かる。が、その手つきは非常にギクシャクしており、とても褒められたものではなかった。しかし、必死に作業を完遂しようと頑張る彼の姿を見て、晃は苛立ちの代わりに、ハラハラとした気持ちになり、彼の姿をジッと見ていた。
「お、お待たせ致しました……340円になります」
「……50点! 緊張し過ぎだよ、ガッチガチでロボットみたい。肉饅でそれじゃ、もっと難しいおでんを注文された時なんか、対応できないよ?」
「あ、う……」
やはり叱られてしまった……と、彼は項垂れる。が、次の瞬間……
「70点以下は赤点だからね! 今度は頑張って!」
晃はニコッと笑って、彼に激励の言葉を贈っていた。その笑顔に、彼は思わず魅入ってしまっていた。そして彼女が背を向けると、彼はその後姿を呆然と眺めていた。
「……方! おい、緒方!」
「……ハッ! ぼ、僕は……?」
「ボンヤリしてんじゃねぇ、仕事中だろが!」
先輩店員にその様子を見られ、咎められてしまう彼……緒方優(まさる)。空いている時間帯だったから良かったが、混雑時なら大目玉を食らうところである。怒鳴られただけで済んだのは、まさにラッキーと言えた。
(あの子……あんな風に笑うんだ……)
畏怖の対象から一転、優にとって晃は好意の対象となっていた。それからの彼は人が変わったように仕事に打ち込むようになり、もう二度と恥をかくものか! と、接客のコツや品物の取り扱いを必死に覚えたのだった。
**********
それから数日経ったある日の夜、晃はルーズリーフの替えが少なくなっていた事に気付き、コンビニに向かっていた。明日は土曜日、休日である。だから急いで買いにいく必要も無かったのだが、休日の前にキチンと課題を終わらせる優等生タイプの彼女としては、我慢できない事だったのだ。
「あれ? 晃じゃないか」
「あー、リン……何? 野球部って、こんな時間まで練習するの?」
「自主トレだよ、サボるとすぐに鈍っちまうからな」
その情熱を少しでも勉強に向ければ、テストの時に青くならないで済むのに……という台詞をグッと堪えて、彼女は急ぐからと彼に背を向けた。が、ここで引っ込む彼ではなかった。
「幾ら近所といっても、夜道は危ないぜ。お前だって一応は女なんだからな」
「……お気遣い、どうも……」
やれやれ、と思いながらも彼の同行を認める晃。彼女は単に断るのが面倒だっただけであるが、凜は心の中でガッツポーズを決めるほどの喜びを覚えていた。
(チャンスだ……夜道に晃とツーショット! 覚悟を決めて、今日こそ告白タイムだぜ!)
少し手を伸ばせば、そこには彼女の手がある……握ろうと思えば、握る事も出来る……が、まだ早い! と、その気持ちをグッと堪えながら、凜はしっかりと晃の隣をキープしていた。
「いらっしゃいませ!」
店内には、やはりと言うか……既に見慣れた顔があった。しかし、以前と違ってオドオドした雰囲気は無く、余裕すら感じられる程に、彼は落ち着いていた。
「リン、ホラ……あの人だよ、例の新人君!」
「ふぅん……?」
晃が指した方を見ると、そこには長身で目鼻立ちの整った優男風の店員が立っていた。
(ふん……アイツがねぇ……)
先日感じたイライラが、またも凜の胸の中に沸き起こる。が、ここでわざわざイチャモンを付けるのも大人気ないし、第一みっともない。そう思った凜は、自らも飲み物と雑誌を買い物籠に入れ、晃の傍に寄って行った。見ると、晃の買い物籠の中にはルーズリーフの他に、牛乳や豆腐、そして調味料などが入っていた。そして、メモにはまだまだ細々としたリストが書き綴られていた。
「……ついでを押し付けられたな?」
「そ。全く、立ってる者は親でも……いや、娘でも使うんだから」
「娘だからじゃね?」
などと喋りながら、メモに書かれた物を全て買い物籠に入れ、二人はレジに向かった。カウンターの向こうで待っていた優は、ニコッと笑みを浮かべてから、買い物籠の中身を選り分け始めた。濡れる物と乾いている物に分別してからスキャンを始め、しっかりと各々を別の袋に入れて会計と袋詰めを済ませた。その手つきは、数日前とは比にならない程あざやかだった。
「すごーい! 今のは満点だよ! どうしちゃったの?」
「……お客様に鍛えて頂いたおかげです」
目を丸くして驚く晃に、にこやかな笑顔を向けながら買い物袋を手渡す優。その二人の会話があまりに楽しそうだったので、後ろで見ている凜は非常に面白くない。そして同時に、先日から抱いていたイライラの正体が、目の前にいる男に対する嫉妬だと、その時になって始めて気付いたのだった。
「おい! 後がつかえてんだよ!」
あからさまに苛立ちを露にした態度で、凜が優に向かって怒鳴りつける。その怒声を聞いた優は一瞬驚いたが、すぐに落ち着きを取り戻し、お待たせ致しましたと侘びを入れてから、凜の分の会計を済ませた。
「ちょっと、リン! 何大声出してんのよ、怒るようなシーンじゃないでしょ?」
「……るせぇ!」
晃にまで咎められ、凜は完全にヘソを曲げてしまった。そして釣銭の無いよう、ピッタリの額の小銭をカウンターに叩き付けるように置いて支払いを済ませると、プイと顔を背けて出て行ってしまった。そんな彼の態度を晃が代わりに詫びていたが、
それが益々癇に障り、凜は店外から大声で晃を呼び付けた。
「アキラ! 何モタモタしてんだ、置いてくぞ!」
唖然としながらその姿を見ていた晃だったが、優がやんわりと『お連れの方がお待ちですから』と、彼女を促す。最後まで申し訳なさそうに店内の優に詫びるようなジェスチャーをしながら店外に出て来た晃が、凜に向かって非難の声を浴びせる。
「何なのよ、大声出して……恥ずかしいじゃない!」
「お前こそ何だよ、あんなミエミエのお世辞言いやがって」
その一言にカチンと来たのか、晃は凜をギロリと睨み、『悪い!?』と言い放ち、プイと背を向けて走り去ってしまった。残された凜は、俺が悪いのかよ……? と、理不尽さを感じていた。無論、もはや告白するどころの状況ではない。店に入る前の胸の高鳴りは何処へやら、全てが台無しであった。
同じ頃、コンビニでは一時的に客足が途絶え、暇になったので床のモップ掛けを始めながら、今のドタバタを思い出す優の姿があった。と言うより、彼は彼女の後ろにいた男の正体が気になり、同時に苛立ちを覚えていた。
(何なんだ? あの男……彼女を名前で呼んでいたし、親しいんだろうけど……彼氏かなぁ?)
苛立ちの正体が分かった途端に、優の心は不思議と落ち着いていった。
(彼氏が居ても、それ以上の魅力を身に付ければ奪い取れる。増して彼のような単純そうなタイプは、焦りで自滅するケースが多い……焦る事は無い、彼女はまたここに買い物に来る……ここで働いている限り、彼女を見失う事は無いんだ)
そう考え直すと、彼は余裕を見せながら仕事に戻っていった。今夜は夜勤、明け方まで仕事は続く。気合い入れなきゃ! と。
**********
その頃、晃は、凜に『見損なった』という感情を抱く反面、明日からどんな顔をして会えば良いんだろう? と考えていた。揉める事になった原因は、優に対しての態度を好意と思われたからだと云うのは分かっていた。しかし、優の存在も気になる。ルックスは良いし、かなりの努力家であるらしい事は仕事の上達振りを見れば分かる。ハッキリ言って好みだった。
昔馴染みで古い友達、そして乱暴なようで実は優しい凜と、彗星の如く現れ、見事に自分の心を掴んだ優……そんな二人の男の間に挟まれて、彼女の心は揺れていた。
そんな騒動のあった夜……すっかり思い詰めてしまった彼女はなかなか寝付く事が出来ず、明け方になって漸くウトウトし始めたのだった。が、彼女はそのささやかな安眠を電話の着信音によって妨げられる事になる。因みに時刻は朝の4時半、普通に眠れていたとしても、起こされたら怒る時刻である。
「何なのよぉ、かじりん……いま何時だと……」
『ゴメン……でも、こんな事を頼めるの、アキラしか居ないんだ』
電話の内容は、かいつまんで言えば買い物の代行を頼む……という事だった。今日発売のコンサートチケットがあるのだが、急な発熱で早朝から行列に並ぶ事が出来ない、という話だった。これが他の理由ならば速攻で断るところだが、どうやら体調不良は嘘ではないようだし、何より彼女は真剣に、そして涙声で頼んでいるのだ。これを断っては後味が悪い。自分も寝不足でフラフラだったが、快くその頼みを引き受け、出掛けて行った……が、やはり寝不足な上に朝食抜きでは、急ごうにも脚が言う事を聞いてくれない。せめて眠気だけでも何とかしようと、彼女は例のコンビニに立ち寄った。
「いらっしゃいま……あ、あれ? どうしたんです、こんな朝早くに?」
その声に驚いて彼女が顔を上げると、レジの向こうには見慣れた顔があった。勤務交代の時刻が近くなったので、引継ぎの準備をしていた優であった。
「んー、ちょっとね……用事でさ。急いでるんだけど、夕べ寝てなくて……で、眠気覚ましのドリンク剤、あったら……」
「あー……顔色悪いですよ? 無理しないで寝てた方が良いんじゃ……」
彼は彼女の体調を案じ、家に戻って寝る事を勧めた。が、どうしても行かなければいけない、と言って聞かない。やむなく彼は、持続時間は短いが効果は抜群と評判のドリンク剤を一本、彼女に手渡した。
「ちょ、これって高い奴じゃん……もっと安いのでいいよ……」
「奢ります。その代わり、用事を済ませたらゆっくり寝て下さいね?」
「そうは行かないよ……」
そう言いかけた彼女だったが、こうしている間にも行列は伸びているだろう。問答している暇は無い。
「じゃあ、お代は借りておくね。後で払いに来るから」
「いいですよ、気にしないで……あ、夜露で滑りますから、気をつけて下さいね」
フラフラとした足取りで、頼りなく去っていく後姿を見えなくなるまで見送り、彼は店内に戻っていった。そして自分の財布から代金をレジに入れて帳尻を合わせていた。その様子を、バックヤードで仮眠を取っていた先輩店員が見ていたが、その彼も人の恋路を邪魔するほど無粋ではなかった。何より、彼は結果的にルール違反はしていない。だから責める必要は何処にも無いのだ。そして彼の頭の中は……彼女の事だけで満杯になっていた。
「あんなにフラフラなのに、人の為にあそこまで一所懸命になれるなんて……あーあ、益々好きになっちゃったじゃないか」
「おーい……ここで幾ら愛を叫んだって、彼女には聞こえねーと思うぞ?」
「……予行演習ですよ。勤務明けたら、本番いきます」
「ん……頑張れよ。お前がトントン拍子に仕事を覚えたのも、彼女のお陰だもんな。見て貰いたかったんだろ? 貴女のお陰で頑張れました! ってトコをよ?」
「バレてました? ……でも、正直その通りです。ちょっと不純な動機ですけどね」
「どこが不純だよ……男として正しいよ、おめぇは!」
彼は徹夜明けでテンションが上がっていた事も手伝って、気持ちが大胆になっていた。その大胆さが、彼の素直な気持ちを引き出していたのだった。やがて早朝勤務のメンバーが来ると、夜勤組の二人は手早く引継ぎを終わらせ、店の前で別れた。
「……あ、彼女……何処に、何をしに出掛けたんだろう……?」
肝心な事を聞き忘れた彼であったが、彼女が小声で『こうしている間にも、行列が……』と呟いていたのを、彼はしっかり聞いていたのだった。その言葉の断片だけを頼りに、彼は早朝の街を、彼女一人を探して歩き回った。
**********
その頃、ランニングの途中で、何故か早朝から出掛けて行く晃を見掛けて怪訝に思っていた凜も、彼女の行方を追っていた。
昨日、あんな事で言い争いをしてしまったばかりである。彼もそれを気に病んでいたのだ。良く考えれば、あの態度は褒められたものじゃなかった。悪いのは自分の方だった……と、気付いたまでは良かったが、それを伝えるのを翌日まで持ち越してしまったのが不味かった。いや、メールや電話でこういった事を伝えるのは礼に反すると考えてしまう彼の思考そのものが、そもそもの失敗だったのかも知れない。こういう事は段取りよりも迅速さが命なのだ。
(あのコンビニ男が本命……とは思いたくないが、気になってるのは確かだろうな……だが!)
彼女の気持ちが向こうに向いてしまっているなら、こっちに向き直らせればいいだけだ! と気合いを入れ直し、彼もまた早朝の街を走り回るのだった。彼女の足取りを追って、想いを伝える為に……と、その時。凜の携帯電話に着信があった。発信者は『梶山』となっている。
(何でアイツが、こんな時刻に俺に……?)
この両者がアドレス交換を済ませていた事も意外だったが、もっと意外だったのは電話に出た後の彼女の態度だった。
『……という訳で、アタシが無理に頼んじゃったんだけど……集まる連中、ガラの悪い奴らばっかだから……心配でさ……』
「ったく、そんな心配するぐらいなら最初っから頼むんじゃねぇよ! いいか? その風邪、絶対に土日だけで治して、月曜になったらアキラに直接謝れよ!」
『うん、ゴメンよ……アンタにも、後で改めて謝るからさ。あ、場所はね……』
普段は自分を『熱血バカ』呼ばわりし、事ある毎に突っかかって来る嫌な女……それが彼女の印象だった。だが、電話の向こうにいる彼女は、普段とは別人のように素直で大人しい。
「……分かった、情報サンキューな。見舞いには行けないが、しっかり寝てろよ?」
『ばっ……来られちゃ困るよ! とっ、とにかく、伝えたからな! 頼むぜ……じゃあな!』
照れるガラかよ……と薄笑いを浮かべながら、凜は指示された場所へと急いだ。何せ、さっきまではしっかりと尾行していたのだが、電話の着信があった為に足を止めた所為で、晃の姿を見失ってしまったのである。しかし、何処に行けば良いのかはしっかりと把握済みだ。あとは晃を見付けて、一緒に並んでガードしてやれば良いだけである。
**********
「ん? ……アレは……?」
市街地の大通りまで出た凜は、そこで見覚えのある人影を見付けていた。長身で、嫌味なほど整った顔かたち。見まがう筈も無い、それは恋敵……かも知れない男の姿だった。が、今は彼に構っている暇は無い。嫌味の一つも言ってやりたいのは山々だったが、敢えてスルーして彼の前を横切り、先を急いだ。しかし……
「あ、ちょっと、君!」
「……何? 急いでんだけど……用事なら手短に頼むぜ」
「間違いならゴメン……君は昨日の夜、女の子と二人で買い物に来て、レジで僕に怒鳴った人だね?」
「あぁ、そうだよ。何? 文句あんの?」
いや、そうじゃないんだ……と、優は一人いきり立つ凜の言葉を否定し、先程彼女がフラフラの状態で店を訪れた事を伝え、その上で『彼女の行き先を知らないか?』と訊いて来たのだった。
「すると何か? アイツは今、一睡もしないで、そんなヤバいトコに出向いてるってのかよ!?」
「ヤバい……? それは聞き捨てならないな、詳しく教えてくれないか?」
何だとぉ……? と目線をきつくして優を睨む凜だったが、彼の目があまりにも真剣だった為、不本意ながら情報を提供する事にした。無論、『チッ!』と舌打ちをして『本当は教えたくないんだぞ』というアピールをした後に……ではあったが。
「……ギブ・アンド・テイクだ。ここは一時休戦して、彼女のフォローに回らないか?」
「仕方ねぇ……ただし、抜け駆けは無しだ、いいな?」
互いに手持ちのカードをオープンにして、共同戦線を張る男二人。まだ、コイツは恋敵なのかも知れない……と懐を探り合っている段階だった筈であるにも拘らず、既に利害の一致が発生し、共同戦線を張っているのだ。この辺のニュアンスは、同じ人物に惚れた者同士のみが共感し合える『第六感』のような物なのだろう。
**********
一方、晃は漸くチケット購入行列の最後尾に着いていた。
スタッフから整理券を受け取ると、安堵感も手伝い、寝不足でフラフラになった脚が限界を迎え、よろけてしまった。が、その先に居た相手が悪かった。いかにもガラの悪そうな女子のグループの一人にぶつかってしまったのだ。
「……ってぇな……」
「ご、ごめんなさい……」
お約束の展開が繰り広げられ、スタッフも他の行列客も見て見ぬ振りをしている。
ただでさえコンディションの悪い時に、武闘派の相手に絡まれ、ピンチを迎える晃。だが、いよいよ物陰に連れ去られ、『お仕置き』シーンに突入……という所で、これまたお約束の展開によって晃は事無きを得る。
「話なら、僕らが聞こうじゃないか……彼女はキチンと非礼を詫びたんだ、これ以上の要求は恐喝になるよ?」
「男がしゃしゃり出るシーンじゃねぇのは、百も承知だがな。アンタらのやり方はフェアじゃねぇ。それ以上やるってんなら、俺達はコイツに加勢するぜ」
先程、即席タッグを組んだ凜と優の登場である。そして、ここまで来て漸くスタッフ介入。『これ以上騒ぎを続けるなら、双方とも行列から出て行って貰います』とのお叱りを受け、双方とも刀を引いて、勝負はドロー。面白くなさそうなのは前に陣取るグループであったが、これ以上の手出しは命取りとあってか、大人しくなっていた。
「行列には、俺が並んでやるよ。聞いたぜ? お前、寝不足だったのに、ここまで歩いて来たんだって? 無茶すんなよな」
「だ、誰に聞いたの?」
その質問に、ブスッと面白くなさそうな顔になりながら、自分の横に立つ男を指差す凜。そして話を振られた優は、凜とは対照的に涼しげな顔で言い放った。
「君がここに残るという事は、彼女を家まで送り届けるのは僕の役目だね。済まないが僕も夜勤明けでね、行列に並んだまま昼まで待つのには、耐えられそうに無いから……」
刹那、二人の視線が空中で交わり、火花を散らす。
「……安心してくれ、僕も勝負事はフェアにやるのが好みだ。君が不在の間に、アピールするような真似はしない」
「ふん! こっちだって、ここの陣取りをネタにして恩を着せるような真似はしねぇさ。その代わり、ちゃんと家まで送って、その後はアンタもとっとと消えろよな!」
不思議と、ライバル同士であるはずなのに、互いの言葉を信頼する事が出来る二人。その顔は実に晴れ晴れとして、どちらも輝いて見えた。
「……っていうか、どうして二人が一緒にいるワケ?」
「コイツが俺の事を呼び止めたからさ」
「僕は君が目の前を横切ったから、声を掛けただけだよ。立ち止まったのは君の勝手だ」
二人は再び目線を合わせて火花を散らす。が、すぐに笑顔に戻り、送り狼はルール違反だの、学校で口説くのはフェアじゃないだのと言い合っている。しかし険悪なムードではない。むしろ、旧知の友のようなニュアンスで互いを牽制し合っているのだ。
(……何これ、乙女フィルター!? そんなモン、アタシに装備されてる訳が……ない……筈なんだけどなぁ……)
互いに笑顔を見せる二人の男の間で、晃の心は益々揺れるのであった。
かなり久し振りの更新となりました。
と言っても、この作品は某ネットゲームのシナリオライター試験にて出された課題の回答であり、意図して書いたものではないんです。
実際、そのゲームのシナリオを1年ほど書いてお金貰ってましたが、その会社とは縁が切れたし、時効って事で。
そもそも、課題の回答として書いたものとは言え、作者は私自身なのだからノープロブレム!
と云う訳で、そういった事情で書かれた作品にしては出来が良いな、と思ったので此方に掲載。
臆面も無く……とお思いの方もいらっしゃるでしょうが、それなりに楽しめる出来ではあると思います。
ってゆーか、やっぱこの路線書き易いわ(笑)
(2015年2月28日)