創作同人サークル『Fal-staff』

『黒い胎動』

「ねえ、リディア」
「なに?」
 彼女は、傍らに居る自分とそっくり同じ顔をした少女に問い掛けていた。
「ここも、あの家とあんまり変わらないね」
「そうだね……結局、どこに行っても同じって事……なのかな?」
 彼女たちは、石造りの床の上に直に腰掛け、二人で一枚の毛布を被って身を寄せ合いながら、互いの体温で暖を取っていた。目の前にある鉄製の格子はとても丈夫で、彼女たちの力で逃げだせるようなヤワな物ではない。そんな、牢獄と言っても差し支えの無いような場所に、一部屋につき4〜5人の女が押し込められていた。皆、この先の人生に絶望しているのか……膝を抱えて、光の宿らぬ瞳で虚空を仰いでいた。
「ちょっかい出してくる馬鹿が居ないだけ、ここの方がマシかもね」
「いただけないのは、床が固すぎる事だね……お尻が痛くてたまらない」
 もぞもぞと、リディアが少しずつ座る位置をずらしながら苦痛を和らげようと試みた。そんな事をしても、少しも状況が変わらない事は彼女にも分かっているのだが、無意識に身体が苦痛に抵抗してしまうのだろう。そんな様子を見て、テルシェは思わずクスッと笑った。
「ソファーが欲しいとまでは言わないけど、せめてカーペットぐらいは用意して欲しかったな。仮にもぼく達は商品なんだから、取り扱いはもっと丁寧にしてもらいたいもんだよ」
「そうねテルシェ……ねぇ、買われて行くとしたら、どんなところが良いかな?」
「興味ないよ、どこに行っても同じ……それに、結局は逃げ出すんでしょ? あの時と同じように……」
「うん……そうだね。私達は、もう何者にも縛られない……」
 そんな事を話しながら、美しい容姿を持った双子の姉妹は、ぼんやりと虚空を仰いでいた。

********

 時は13年ほど遡る。場所はとある名家の屋敷の中。

「シンシアは何処にいる?」
「はっ、はい、旦那様……奥様は今夜、ご友人の招待でお出掛けになっておられます」
「……あいつは一体、何をやって居るのだ……ここ数ヶ月、夜中に自分のベッドに居たためしが無い」
 屋敷の主であるアルバート・クロムウェルは、傍らに居るメイドに妻の居所を尋ね、またか……といった感じでこめかみを押さえた。しかし、それも格好だけといった感じで、その態度や表情には既に深い感情は篭められていなかった。
「そもそも、あいつとの結びつき自体が家同士で定められた物だったのだ。愛情など無い……あいつもそう思っているのだろう。家に居るときは不機嫌そうに過ごし、夜になると出掛けていく。私の元に居るのが面白くないのだ」
「旦那様、そんな……奥様にも、何かお考えがあっての……」
「ナディア……もう良い。すまんがお茶を淹れてくれないか? ダージリンにレモンを添えて、私の書斎に持ってきてくれ」
「かしこまりました、すぐにお持ち致します」
 その返答を聞くと、彼は身を翻して書斎へと向かった。
 政略結婚とでも言おうか。彼ら夫婦は、名家同士の血統を更に磐石な物にするという目的で、望まぬ縁談によって無理やりに結び付けられたのだった。その出会いにロマンスがあった訳でも、互いに惹かれあって結ばれた訳でもなかった。
(……私とて、一人の男として、情熱に満ちた恋愛の一つも体験してみたかった。家同士の結びつき? ふん! このつまらぬ人生の何処に、私自身の意志があると言うのだ)
 幼い頃から厳格に育てられ、学校で友人を作っても教育係である使用人の目に適わなければすぐにその仲は裂かれ、いつしか彼に近づく学友も居なくなった。そんな少年時代を送った彼に、まともな恋など出来よう筈も無かった。
 そんな彼にも、理想とする女性像はあった。ありていに言えば『好みのタイプ』という奴である。が、見合いによって導かれた相手は、彼の理想とは掛け離れた外見と思想を持った女性であり、それが今の夫人……シンシアであった。
 ふと彼は、あるドアの前で足を止め、軽くノックをして返事を待った。
「はい?」
「私だ、アルバートだ」
「……旦那様!」
 部屋の中に居た侍女が、慌ててドアを開けて彼を招き入れた。その部屋の奥には、乳母の乳に夢中でしゃぶりつく彼の息子――ルーファスと名付けられた男の子が居た。
「どうだ?」
「はい、お健やかに過ごされておいでです」
「そうか……」
 こんな状況でも、妻との間に愛情など無くとも、人の親になる事は出来るのか……そんな事を考えながら、アルバートはルーファスの顔を覗き込んだ。
「ご苦労だが、ルーファスを頼むよ。シンシアは今夜も帰らないようだ」
「はい、旦那様」
 そしてアルバートは再び身を翻し、部屋を出て行った。
(……この家に、跡継ぎは残したのだ。ならば、私の役割も半ばは果たしたのではないか?)
 そんな思考が、彼の脳裏を横切った。このとき彼が抱いたほんの僅かな心の乱れが、後に彼自身の人生を……いや、周囲の者をも巻き込んで、その人生を大きく湾曲させてしまう結果になるという事に、誰もまだ気付いていなかった。

********

「あ、旦那様……」
「おお、ナディアか。ちょうど書斎に向かうところだったのだ、そのままそれを運んできてくれ」
 ドアを出たところで、アルバートは先程頼んだティーセットを持ったメイド――ナディアと鉢合わせをする形になった。一瞬、互いに驚いたような表情になったが、すぐに二人は平静を取り戻して書斎に向けて並んで歩を進めた。
「ナディア、お前はこの家に来て、何年になる?」
「旦那様がまだ大学に通っておられた頃からご奉公させて頂いておりますので……今年で10年になります」
「そうか……」
 このナディアというメイドは、いま屋敷に居る使用人の中でも古株の部類に入るベテランであったが、メイドとして仕え始めた時に15歳という若さだったため、長く勤めているという印象を殆ど感じさせない雰囲気を持っていた。
「もうそんなになるのか、月日の流れるのは早いものだな」
「しかし、旦那様は今でもお変わりなく……」
「成長していないという事か?」
「とんでもない、私はただ……」
 慌てて言い繕おうとするナディアに対し、アルバートはニッコリと優しい笑顔を見せて、冗談だと言って取り成した。そんな彼を見て、ナディアの方も思わず笑みをこぼし、和やかな雰囲気になった。
 やがて書斎に着き、気に入りの椅子に腰を落ち着けるアルバートの傍らに、ナディアがティーセットの支度を整えた。その手つきは慣れたもので、機敏なだけでなく、動き自体に気品が感じられた。
「では旦那様、また御用がありましたらお呼びください」
「あ……ま、待ちなさいナディア!」
「え……?」
 仕事を済ませ、立ち去ろうとしたナディアを、アルバートは思わず呼び止めていた。
「あー……コホン。いつも、愚痴を聞いてもらって、済まないと思っている」
「だ、旦那様! 何を仰いますか。私達使用人は、時には主の心のケアも行うものです」
「……そう考えているのは、お前ぐらいだぞナディア。言っておくが、私はお前以外の使用人に、このような私情を漏らした事は一度だって無い……いや、家族にすら愚痴など零した事はない。私が本音をぶつけられるのは、今も昔も、お前だけなのだ」
「えっ?」
「思い出してみろ、ナディア。初めて私に仕えた頃の事を」
「あ……」
 ナディアは元々コーヒー豆3袋で売られてきた農民の娘で、当然、最初は教養も足りず態度も悪かった。が、逆にその事が、厳格に育てられ、塞ぎこみがちになり、友人も無かったアルバートの好奇心を揺り動かし、彼の興味を惹いた。いつしか彼は、自分の身の回りの世話係として、積極的にナディアを指名するようになっていた。
 無論、最初のうちは些細な行き違いや、ナディア自身の育ちの悪さから、思うようにコミュニケーションが取れず、互いに苛立ち、ついには口論にまで発展する事すらあった。だが、そうやって本音をぶつけ合ううちに打ち解けるようになり、主従関係という繋がりよりも、情が優先するような間柄となっていった。
 しかし、彼らはあくまで雇い主と従者の関係。年齢を重ねるにつれて互いの立場を理解し、ナディア自身も教養と立ち居振る舞いを身に付けて、一人前のメイドとして成長して行ったのだった。
「そういえば、何故私だったのでしょうか? 他にも良い使用人は居たはずなのに」
「だから、私にも分からんのだ。ただ、お前は見習いの頃、歳の近い私に対して対等に近い態度で接し、使用人としてよりも、友人に近い印象を私に与えた……だから、親しみが持てたのかも知れん」
 そして一呼吸置くと、アルバートは改めてナディアの顔を見詰め、今度は真剣な表情で質問を始めた。
「ナディア……教えてくれ。私はシンシアよりも、お前と居る方が心が弾む。何故なのだ?」
「旦那様……なりません。それは……それだけは。シンシア様を……いや、クロムウェル家と、エインズワース家の名に傷を……」
「何故だ!? この疑問を解くことが、何故に両家の名に傷を付ける事になるのだ?」
「旦那様……恐れながら、これは恋心と言う物かと。しかし、いま旦那様が抱いている感情は、きっと一時的なものに過ぎません。私のような下々の者が、旦那様の……」
「そうか……シンシアには感じなかったこの高揚感を、お前には感じる。これが恋という物なのか」
「だっ、旦那様……いけませ……ッ!!」
 10年もの間、モヤモヤと心の奥底で燻っていた感情の正体が今になってやっと明確になり、解き放たれた欲望は彼を……アルバートを高貴な家の主としてではなく、一匹の『雄』として覚醒させていた。また、彼に仕えていた10年の間、密かに育んでいたナディアの恋心もこの時に歯止めを失い、二人は立場を忘れて互いの身体を求めあった。

********

「な……何だと!?」
「旦那様……申し訳ありません。しかし、間違いありません。このお腹には、旦那様の赤子が……」
 アルバートの乱心によって、使用人であるナディアと肉体関係を持ってしまったあの日から数ヶ月。彼女の胎内に、子が宿されている事が判明した。それがあの晩に出来た、アルバートとの子である事は明白であった。
「何という事だ……そ、そうだ、まだ間に合うだろう。胎内の子を切り離して、無かった事に……」
「そんな……産ませてくださいませ! 旦那様の子である事は、絶対に秘密に致しますから!」
「し、しかし……」
 アルバートは狼狽した。ナディアが出産する事自体には何の問題も無いのだが、それが自分との間に出来た子供であると明かされると、非常に拙い事になるからである。如何に彼がナディアを愛していようとも、シンシアという『妻』の存在がある以上、彼女と男女としての関係を持つことは許されない。増して、妊娠・出産など以ての外、という訳だ。
 それに彼自身、シンシアとの間にとりあえず出来ただけという感じのルーファスに対してより、真に愛するナディアの子の方に深い愛情を注いでしまうであろう事を、良く分かっていたのだ。そうなれば将来、お家騒動にもなりかねない。そして更に、先代当主のボールドウィン・クロムウェルが目を光らせている。アルバートは、幼少の頃から厳格な教育を施されて育った為、父親に対して異常なまでの畏怖の念を抱いていた。それ故に、此度の事が知れれば大変な事になる……そう確信していたのだ。
「お願い致します……後生です、貴方との結びつきの証を……私に与えてくださいませ」
「……分かった。しかしクロムウェルの姓を名乗らせることは出来ない、あくまでお前の私生児として扱う。これを約束してくれ」
「……ありがとうございます」
 この日からナディアは暫し職を外され離れに隔離、他の使用人に対しては強姦の被害に遭って妊娠させられたという虚偽の報告がなされた。これによって彼女の使用人の間での評価は一時的に下落したが、そんな彼女の扱いを見かねたと芝居を打ったアルバート専属の従者として仕える事で、ナディアの立場はむしろ、以前より高くなっていたのだった。
 が、逆に、産み落とされた赤子……双子の女児の立場は低く、単なる使用人の私生児として扱われた。名家・クロムウェルの血を受け継ぐ子であるにも拘らず、その素性は固く秘匿され、アルバートの非嫡出子である事すら決して公表しないという条件によって産み落とされた……ただそれだけの理由で、である。

********

 あれから6年の歳月が流れた。産まれた双子の女児はその扱いの低さに耐えてたくましく育ち、並みの子供を遥かに凌ぐ身体能力を誇り、屋根裏部屋から雨樋を伝って庭に出るなど朝飯前、その機敏な動きを利用して厨房から食材を失敬することも度々あった。
 彼女たちは美しい容姿を持っていたが、水浴すら侭ならないという不便さが災いしてその身体は垢と埃にまみれ、悪臭を放っていた。折角の容姿もその汚れに隠され、彼女たちの評価を更に低くする要因となっていた。が、彼女たちはそんな周囲の目など気にせず、実にのびのびと、自由奔放に育っていった。満足な教育を受けられないために読み書きすら出来ないという有様であったが、屋根裏から使用人たちの会話を盗み聞きすることで、喋る事だけは出来るようになっていた。しかし、愚痴や陰口などを多く聞いて育ったためか、年齢の割には屋敷の裏事情に精通し、しかも言葉遣いはかなり粗暴なものであった。
「リディア! 今なら誰も見てないよ、早く!」
「あん! 待ってよ、テルシェ」
 姉妹は周囲の目を盗み、こっそりと屋敷の庭に出て遊んでいた。が、折悪く、そこにルーファスが現れ、姉妹の姿を見つけてしまった。
「何か匂うと思ったら……お前らか。こんな薄汚い奴らが、どうして屋敷の中をウロチョロ出来るんだ? ハッキリ言って目障りだ、出て行ってもらいたいね!」
「……たまたま金持ちの子供に産まれたってだけで、偉そうにしないで」
「そうだよ、私たちだって好きでこんな暮らしをしてるんじゃないんだからね」
 姉妹は真正面からルーファスを睨み付け、その横柄な態度に対して反抗した。が、流石に正当な後継者である彼はあくまで強気に出ていた。
「何だよ、その目は……僕に逆らおうっての? 父様お気に入りのメイドの子かなんか知らないけど、お爺様に言いつければ、お前らなんか簡単に追い出せるんだからな!」
 その発言にカチンと来たリディアは、元々母親の事を快く思っていない事もあって、更に反抗的な態度に出ていた。
「ママは関係ないじゃない、産んでくれだなんて頼んじゃいないんだから。言っておくけど私たち、アンタなんかちっとも怖くないからね」
「い、言ったな!? ほ、本当に言いつけるぞ、知らないぞ!?」
 リディアの勢いに押されて、ルーファスは既に逃げ腰になっていた。そして更に、追い打ちを掛けるようにテルシェが加勢した事で、形勢は完全に逆転してしまった。
「いいよ、告げ口したければ、好きなだけすれば? おじい様ぁ、ボク女の子にケンカで負けちゃったよぉ〜、ってさ」
「くっ……! ふん! ろくに風呂にも入れないくせに! 臭くてたまらないぜ、気分が悪いや!」
 ジリジリと距離を詰めてくる二人に対し、ルーファスはやっとの事で捨て台詞を残し、去っていった。そのあと数秒置いて、事の一部始終を物影から見ていたアルバートが、いかにも『今みつけた』ような素振りで二人に近寄って来た。
「お前たち! 昼間は庭に出てはいけないと、あれほど言ってあっただろう!」
「……なんでなの? どうして外に出たらいけないの?」
「そうだよ、どうしてコソコソ隠れるように暮らさなくてはダメなの? それを教えてよ」
 矢継ぎ早に食って掛かる二人を見て、困ったような表情を見せた後、アルバートは二人を見下ろすように見据え、ゆっくりと口を開いた。
「住まわせてやっているだけでは不満か?」
「それ! その『住まわせてやっている』ってのが嫌なの!」
「そうだそうだ! 何なのよ、偉そうに!」
「黙れ!!」
 ギャンギャンとまくし立てる姉妹に一喝し、その威圧感で二人を黙らせると、アルバートは子供にはまだ難しいだろうと理解しながらも、姉妹に説教を始めた。
「この世の中にはルールがある。誰かの役に立つ事が出来れば、礼が貰える。それは分かるな?」
「…………」
「この家の使用人たちも、この家の手伝いをする代わりにお金を貰って、それで暮らしているんだ。お前たちの母とて同じだ、その母の稼いだお金で暮らしている以上、お前たちは『住まわせて貰っている』と言われても、文句は言えんのだ!」
 切り捨てるように放たれたその台詞に腹を立てたテルシェは、あらん限りの虚勢を張って異議を申し立てた。
「ちょっと待って! ルーファスは何なの? あいつだって働いてないじゃない、役に立ってないじゃない!」
「彼は、これから役に立つのだ。この私の後継者としてな。だから今は免除して、育ててやっている。それだけだ!」
 これが生まれの差か……という事を、幼心に理解したのか。姉妹は歯を食い縛り、悔しさに耐えた。
「いいか? 正当に扱って欲しければ、まずは役に立てるようになれ。そうなれば話も聞いてやろう!」
「……いま言った事、覚えてなさいよ!」
 テルシェはギロリとアルバートを睨み、地面に唾を吐いて去っていった。そしてリディアも、同様に彼に対して憎しみの眼差しを向けつつ去っていった。
 アルバートは二人に対して申し訳ないと思いつつも、他にどうする事も出来なかったのだ。出来るならば、今すぐに素性を明かして二人を抱き寄せてしまいたい。だが、それはナディアとの秘密を暴露する事に繋がるため、叶わなかった。家のため、そして無用のトラブルを避けるためにも、彼は彼女たちに辛く当たるしか無かったのである。
「旦那様、いかがなされました?」
「ん? あぁ……何でもない、少し考え事をしていただけだ」
 姉妹の姿は既になく、アルバートは一人、庭の片隅に立ち尽くしたまま暫し呆けていた。そこに執事が通り掛かり、その様を見られてしまったのだ。
「シンシアはどうした?」
「奥様は先程、馬車を呼んでお出掛けになられました」
「そうか……」
 ふぅっと空を仰ぎ、彼はそのままの格好で執事に指示を出していた。
「すまないが、少し書斎に篭るよ。夕食はサンドイッチとスープを……それと、食後にお茶を持って来させてくれ」
「はい……分かりました」
 そう指示を出すと、アルバートは執事に背を向けた。

********

「ねぇテルシェ、今度は何処に行くの?」
「そうだね、何処から抜け出そうか?」
 今日もまた、テルシェとリディアは屋根裏を抜け出そうと画策していた。元々二人は、なかなか自分達の所に寄り付かないナディアの事を快く思っては居なかったし、アルバートは単に頭ごなしに自分たちを叱りつけるだけの存在でしかなかったから、素直に言う事を聞こう筈も無かったのだが……特にリディアの方は、意図的に反抗的な態度に出ようとする向きがあった。
「昨日はここの庭に出たら、すぐにルーファスの奴に見付かったから……」
「今日は裏庭の方に出てみよう!」
 と、二人は昨日とは違う通風孔からの脱走を企て、梁の上で器用に身体の向きを変えて、別の出口を目指した。四つん這いの格好ながら、順調に歩を進め、慣れた足取りで天井裏を伝っていく。が……
「キャ!!」
「な、何!?」
 先を行くリディアが、いきなり目の前を横断したネズミに驚いて悲鳴を上げ……そして思わずバランスを崩し、天井の梁から足を踏み外してしまった。
「わあっ!!」
「あ、危ないリディア!! 掴まって!!」
 腕の力だけで梁にぶら下がっているリディアを助けようと、テルシェは何とか手を伸ばそうとした。しかしリディアの足は既に天井の板を踏み抜いて、下にある部屋に胸元まで晒した格好でぶら下がってしまっていた。
「……な、何じゃ?」
 そのほぼ真下に居た男――と言っても、白髪に髭を蓄えた、サンタクロースを髣髴とさせる老人であったが――彼は、唐突に目の前にぶら下がってきた子供の身体を見て、暫し目を丸くしていた。が、頭上から聞こえてくる悲鳴を聞いて状況を把握すると、やれやれと言った感じで腰を上げ、必死に這い上がろうとしているその子の方に近寄って行った。
「大丈夫かね? 元気が良いのは結構な事だが、女の子がそんなはしたない格好を晒すのは感心できんな」
「え……?」
 唐突に下から声を掛けられ、リディアは驚いて声を上げてしまった。
「ほれ。無理に上がろうとすると、板の棘で怪我をするぞ。支えてあげるから、降りてきなさい」
「あうぅ……」
 普段なら威勢よく反抗する彼女であったが、今の状況では逆らう事も出来ない……と、諦めて足元からの声に従う事にして、その声の主に身体を預ける格好で階下に着地した。
「リディア、大丈夫!?」
「私は平気……」
「ほれ。そっちの君も、降りてきなさい。今、梯子を掛けてあげるから」
 庭木の手入れに用いる大型の梯子を室内に持ち込んで、残されたテルシェのためにと、謎の老人はリディアが開けた天井の大穴から降りるための進路を作ってやった。この人は一体、誰なんだろう……と、双子の興味は一気にそちらに向いた。
「大旦那様、いま大きな音が致しましたが、何かあったのですか?」
「何でもない、大丈夫だ」
「いや、しかし……」
「何でもないと言っただろう。用があれば呼ぶ、持ち場に戻りなさい」
「は、はい……」
 ドアの外から声を掛けてきた、警護の者と思われる男性を遠ざける『大旦那』と呼ばれた老人。彼こそ、この屋敷の先代当主、ボールドウィン・クロムウェル……その人であった。彼はゆっくりと双子の方に向き直ると、彼女たちに対しての第一声を掛けた。
「ほぉ……これはまた、かわいらしい泥棒さんじゃのぉ」
「ど、泥棒なんかじゃない!」
「そうだよ、私たちはこの家のメイドの子だ!!」
 その発言を聞いてボールドウィンは、あぁ、そういえば数年前、使用人が私生児を産んだと言う話を聞いた事があるな……と、朧げながらに思い出した。だが、どういう訳か、彼がその姿を見たことは、今までに一度もなかったのだ。
「メイドの子が何で、コソコソと天井裏を這うような真似を?」
「だって、お屋敷の中を歩くと怒られるんだもん」
「使用人の子は、屋根裏でじっとしてなさい! って」
 はて、ワシはそんな事を言った覚えはないが……? と、ボールドウィンは首を傾げた。使用人とて人権ある一個人。屋敷で働く以上、ある程度の品位と教養は付けさせる事にしていたが、その私生活にまで厳しい規則を設けた覚えは無かったからである。
(この二人、恐らく……ただの私生児ではない……な)
 流石に名門クロムウェル家の元当主、その眼力に狂いは無かった……が、彼女たちには何の罪も無い。実に無邪気な、愛らしい女の子たちである。
(この子達の素性を洗う事は容易だが……そんな無粋な真似はするまい)
 とにかく、この二人をもっと自由に過ごさせてやりたい……彼の思いはその一点に尽きていた。
「ふむ……分かった、安全な出入り口を作っておいてあげよう。これからはこの部屋から、あの庭に出るといい」
「え……!?」
「あの庭は、この部屋専用に作らせた、ワシのプライベート・ガーデンじゃ。外部から覗かれる事もないし、無論、誰も入っては来ない。安心して遊んで大丈夫じゃ」
 ニッコリと笑いながら、ボールドウィンは二人に敵意が無い事をアピールした。だが逆に、リディアとテルシェの二人は、何故そこまでしてくれる? と不思議に思っていた。
「お爺さん、何か企んでない?」
「アルバートのおじさんと、グルとか……」
 その一言を聞いて、ボールドウィンは『やはりアルバートが、何らかの圧を掛けて居ったか……』と見抜いていた。だが彼は、そのような心の内は一切表情には出さず、おどけて見せた。
「ほっほっほ!! 子供がそこまで疑り深くなるようではいかん!! もっと素直になりなさい。それにのぅ……」
「……それに?」
 ボールドウィンはわざとらしく眉間に皺を寄せ、真剣な表情を作って双子を呼び寄せ、耳打ちをするように話し掛けた。
「ワシも、アルバートの奴とは仲が悪いんじゃよ。だから、お前さん達の事は絶対にあいつには言わん。ルーファスにも、な」
 単純な台詞であったが、逆に分かりやすいその一言は、彼女たちを一気に安堵させた。
「いいか? あの天井の出入り口は、わしらだけの秘密じゃ。いいね?」
「うん!!」
 ここに来て、二人は初めて子供らしい、年齢相応の笑顔を見せた。その笑顔を見て、ボールドウィンは思わず顔を綻ばせた。
「……さて、とりあえず。あの大穴を塞がない事にはのぉ」
「あぁん、まだ直しちゃだめぇ!」
「私たち、帰れなくなっちゃう!」
「ほっほっほ……大丈夫じゃよ、お前さん達が帰った後の話じゃ」
 新たな孫ができた様な喜びを、彼は隠さずに居られなかった。そのときの彼はまだ、その双子が自分の本当の孫に当たる事になど、まったく気付いていないのであった。

********

「あー、気持ちいいー!」
「身体を洗えるなんて、久しぶり!」
「これこれ、そんなに大きな声を出したら、外に聞こえてしまうよ」
 テルシェたちがボールドウィンの部屋に遊びに来るようになって間もなく、彼は庭に『池』と称した小さなプールを作らせた。北欧とはいえ、夏になればそれなりに気温は上がる。したがって、汗もかく。そうなれば、水遊びの一つもしたくなるだろう……という考えによるものだったが、これが大当たりした。天井のドアをノックして現れた二人にそのプールを見せると、彼女たちは瞳をキラキラと輝かせ、ソワソワとしながらプールとボールドウィンの顔を交互に見ていた。ニッコリと微笑んだ彼がゆっくりと頷くと、彼女たちはワァッと服をその場に脱ぎ捨て、一目散に水の中に飛び込んでいった。
 夢中になって遊ぶ双子を見て、彼はずっとある疑問を抱いていた。ガリガリに痩せこけているという様子も無い事から、食べ物は与えられているようだ。服装そのものもそれほど酷いものではなく、マメに交換している様子は見て取れた。現に、今ここに脱ぎ捨てられている服も、継ぎ当てだらけのボロ着に違いは無かったが、丁寧に洗濯されており、酷く汚れているという訳では無かった。
「……風呂は嫌いかね?」
「ううん、大好きだよ。でも、シャワーを使うと屋敷の人に見付かっちゃうから」
「雨が降った日に、コッソリ外に出て、身体を洗うの」
 今の証言から、何らかの理由で、彼女たちはその存在を何かから秘匿するかのように、隠蔽されているという事実がハッキリした。屋敷の中に住んでいるにも拘らず、シャワーまで使用を禁止されるなど尋常ではない。では、一体誰が、どのような理由で彼女たちの存在を隠そうとしているのか……彼の疑問は深まるばかりであった。
 やがて、すっかり綺麗になったその髪をタオルで拭きながら、二人が部屋に上がってきた。
「ほっほっほ……気持ち良かったかな?」
「うん!」
「これからも、入りに来ていい?」
「勿論だとも……ただ、この部屋にも専用のバスルームが付いて居る。お風呂が目的ならば、今度からはそちらを使うといい」
 その発言に、えっ? と驚いた感じの表情を浮かべたリディアが質問した。
「え? あれ、お風呂じゃないの?」
「アレはプールじゃよ。ほれ、キチンと水着も用意しておいたのに、お前さん達ときたら……」
 いかに幼いとはいえ、相手はレディである。目の前でホイホイと裸になられたのでは、さしもの老紳士・ボールドウィンといえども困ってしまう、という訳である。
 しかし、当の本人たちはまるで気にしていないといった感じで、素裸のままで部屋の中をウロウロしている。これはレディとしての教育を、しっかりしなければいかんかな……と思いながら、彼は苦笑いを浮かべた。
「む……?」
「ん? なぁに?」
「ほっほっほ……なんでもないよ。さあ、そろそろ服を着ないと、流石に風邪をひいてしまうよ」
「あ、そうだね!」
 彼はふと、髪を拭きながら微笑むテルシェの横顔に何か懐かしいものを感じ取り、思わず凝視していた。そして、そのモヤモヤとした思い出の正体に気付くと、一瞬驚いたような表情になり、狼狽した。が、目の前の二人に気付かれる前に平静を取り戻し、笑顔を作っていた。しかし、彼の胸中は複雑な思いに支配されていた。
(まさか……しかし、あの横顔は若い頃のデイジーにそっくりじゃ……他人の空似? いや、あまりに似すぎている)
 ボールドウィンはテルシェの横顔に、今は亡き妻であるデイジーの姿を思い出していたのだった。アルバートの母である彼女の面影を、この子たちに見る……と、いう事は……? 
「のぉ、お前さんたち?」
「え?」
「あ、いや……コホン。ジュースがいいかね? それとも、お茶にするかね?」
「ジュース!」
「ほっほっほ……よしよし」
 思わず彼は、彼女たちに父親について何か知らされていないか、それを質問しそうになり、慌ててその言葉を喉の奥に引っ込めていた。今ここで、それを訊いて何になる……仮に、自分の想像した通りの事実がそこにあったとしても、目の前の彼女たちには何の関係も無いのだ、と。
(しかし……この仮定が正しければ、アルバートが圧を掛けている理由にも説明が付く……シンシアとの関係が順調でない事は分かっておったが、愛人まで作っておったとは……これはワシにも責があるな。些か抑圧しすぎたようじゃ)
 ボールドウィンは、いつかその事について話をしなければならないな……と、心に決めていた。

********

 双子の姉妹とボールドウィンの『密会』が始まって、二年ほど経過したある日。その日も、彼女たちは遊びに来ていた。が、最近は、単に遊びに来るだけではなく、教養を身につけるための訓練も兼ねるようになっていた。彼女達はただでさえ秘匿されている身の上、学校になど当然通えない。だが、幸いにしてこの屋敷には、たくさんの書物と……何より、博学な『友人』である、彼……ボールドウィンの存在がある。彼女達はまず、彼に『読み書き』を教わっていたのだ。
「お爺さん、今日はこれを借りて行っていい?」
「……その本はまだ、お前さんには難しいんじゃないか?」
「少し難しいぐらいで、ちょうどいいよ」
「……本当に熱心じゃのぅ。ルーファスの奴にも、見習って欲しいもんじゃ」
「あんなのと一緒にしないで!」
 二人は声を揃えて、声に出した。息の揃った文句に、ボールドウィンは思わずプッと吹き出した。
「余程、あやつが嫌いとみえるな?」
「だいっきらい!」
「頭悪そうなくせに、偉そうで!」
「顔だって、シンシアおばさんに良く似て、嫌味っぽいし!」
 彼女たちの言葉を聞いて、ボールドウィンは笑った。そして、稀にしか顔を見せに来る事のないルーファスよりも、目の前に居る二人の方を、本当の孫として堂々と扱いたい……と、彼は思うようになっていた。

********

「テルシェ? あなた、また難しそうな本を……いったい何処から?」
「ママには関係ないわ、放っておいて」
 見覚えの無い本を、薄暗いランプの明かりで読んでいたテルシェにナディアが問い掛けたが、彼女から返って来たのはそっけない回答だった。まるで、声を掛けないでと言わんばかりに放たれたその一言は、氷のような冷たさを含んでいた。
「テルシェ、その口の利き方……」
「何? たまに顔を見せに来たと思ったら、お説教?」
「オトナって勝手だよね、自分たちの都合の悪い事は力でねじ伏せて……」
「リディア……? 貴女も!?」
 テルシェに加勢するように横槍を入れてきたリディアの台詞に、ナディアは更に顔を蒼くした。
「……ま、これはママに限った事じゃないけどね」
「うん、アルバートおじさんも、文句も聞かずにお説教を始めるもの。まるで、私たちを邪魔者扱いするみたいに」
「邪魔者だなんて、そんな……」
 思いも掛けない連続攻撃に、ナディアは為す術がなかった。確かに周りの目を欺くために秘匿はしてきたが、邪魔者扱いした事などは無かったし、精一杯に目を掛けて育ててきたつもりではあった。それがこんな結果に……と思うと、やるせない気持ちで一杯になった。
「……何じろじろ見てるの? 気が散るから、あっち行ってよ」
「それとも、何か言いたい事があるの?」
「……!!」
 二人から冷ややかな視線を浴びせられ、ナディアは思わず逃げ腰になった。その冷たい視線に追い出されるように、彼女は屋根裏部屋から退散して行った。そして、この事を報告しなくては……と、彼女はアルバートの執務室へと急いだ。

********

「アルバート」
「はい、父上……何か?」
 その頃、本館と旧館を結ぶ人気のない廊下の片隅で、ボールドウィンがアルバートを呼び止めていた。アルバートは呼び声に振り返ったが、声を掛けたボールドウィンの方は背を向けたままだった。
「双子の姉妹……あれはお前の血を引いておろう?」
「……!! な、何の事です? 藪から棒に」
「隠さずとも良い……あれは良い子達だな」
 背中越しに紡がれる一言一句に、アルバートは戦慄していた。額から流れ落ちる冷や汗をやっとの事で拭いながらも、彼の喉からは、声を発する事はできなかった。
「……もっと可愛がってやるのだな」
 アルバートの態度から、双子が彼の実子であり、自分の孫に当たるという事を確信したボールドウィンは『二人を日の当たる場所に出してやれ』という意味を込めた一言を掛け、返事を待たぬまま、その場を立ち去った。
 が、当のアルバートは、今まで秘匿してきた事実をあっさり看破された事ですっかり狼狽し、その真意を見誤っていた。

********

 ナディアが、アルバートの執務室の前で、ノックに応答がないために立ち尽くしていた。この時刻にこの部屋に居ないという事は、寝室か……と読んだ彼女が踵を返そうとしたその時、不意に声を掛ける者があった。
「……ナディアか?」
「あ、アルバート様……」
 互いに蒼い顔をした二人は、暫し言葉を失ったままドアの前で見合った状態から動く事が出来なかった。が、先に我に返ったアルバートが、ナディアの手を引いて執務室へと入っていった。
「……どうしたナディア、私に何か用があったのではないか?」
「はっ、はい……リディアとテルシェの事なのですが」
「……!?」
 二人の名を聞いて、アルバートは更に顔を強張らせていた。
「……見覚えの無い、難しい本を二人して読んでいて……」
「見覚えの無い本……? もしやそれは?」
「何か覚えが?」
 アルバートの与り知るものであれば問題は無い……と一瞬安堵したナディアであったが、次に彼の口から発せられた一言により、その安心は粉々に粉砕されていた。
「……実は、父が……あの二人の正体に気付いているようなのだ」
「……!?」
 と、アルバートはここで先刻の廊下での一件を、ナディアに話して聞かせた。
「……だとすると、あの子達が読んでいた本は……」
「恐らくは父のものだろう……まずい事になった、一番知られてはいけない人物に……」
 既に、彼女達が屋敷の中のあちこちを、屋根裏伝いに徘徊している事はアルバートも知っていた。最悪、ボールドウィンとの邂逅もいつかはあるだろうと覚悟はしていた。だが、その素性をアッサリと見破られる事は想定外だったのである。
「あ、あの子達は一体、どうなるのです?」
「……父は『可愛がってやれ』と言っていた……『処分するまでの間に、よく顔を見ておけ』という意味……だろうな」
「……!!」
 狼狽したアルバートは、ボールドウィンの言葉を曲解してしまっていた。それまでの主張から、隠し子の存在など認めないという判断を下すものと決めて掛かっていたのだ。つまり、このまま放置すれば、双子は文字通り処分されてしまうだろう……と。アルバートはすっかり動揺し、ボールドウィンの忠言を真逆に解釈していたのである。
「……大丈夫だナディア。あの子達を処分など、させはしない……安心しなさい」
「アルバート様……?」
 心配は要らない……と、ナディアを抱き寄せて安心させようとしたのだろう。だが、アルバートの肩はガクガクと震え、その振動は彼女の身体にも充分すぎるほどに伝わっていた。
 そして……先代当主の訃報が使用人たちの耳に入ったのは、その数日後の事であった。

********

「お爺さん、あんなに元気だったのに……」
「いきなり具合悪くなって、すぐに死んじゃったね」
「心臓の病気だって聞いたけど、本当だったのかな?」
 ボールドウィンの葬儀は、それは厳粛に、且つ盛大に執り行われた。しかし、彼女達はそこに参列する事すら許されなかった。
「お葬式にも、出させてもらえなかったね」
「……ねえテルシェ、どうして私たち、隠れてなきゃいけないんだろうね?」
「うん、ずっと思ってた……前にそれを訊いたら、役に立てるようになれ……って言われたけど、あれって答えになってないよね」
「そうだね、ぜったい誤魔化されてるよね、私たち」
 それに、気付いていない訳ではなかった。いや、当の昔に気付いてはいた。だが、彼女たちは敢えて座視していたのだった。しかし親しい者の葬儀にすら出してもらえないという現実を体験させられた今、その理由について明確な説明が無い事に疑問を抱かずには居られなかったのだ。
「もう一度訊いてみよう。どうしてお爺さんのお葬式に出させてくれなかったか」
「……このままじゃ、納得いかないからね」
 二人は屋根裏を出て、いつもとはルートを変え……直談判をするつもりで、アルバートの執務室の真上に向かった。
(ここだね……)
(ん? 待って、誰かと喋ってる)
 天井板を少しずらし、二人は上から部屋の様子を覗き見た。そこには、アルバートと……一人の黒尽くめの男が立っていた。
「なかなかの上首尾だったな……些か薬の回り方が早い気がしたが」
「ご心配には及びません……あの年齢ですから、いつ心臓発作が起こっても不思議ではありません」
 二人は確かに聞いた。薬、そして心臓発作という二つの言葉を。
(薬で、心臓発作って……)
(じゃあ、お爺さんは……病気じゃなくて……)
 思わず声を出しそうになり、二人は慌てて口を噤んだ。そして、アルバートが何やら目の前の男に袋を手渡し、その中身を確かめると、男は満足げに笑ってそれを懐に収め、帽子で顔を隠すような仕種をして部屋を出ていった。
(こ、殺し屋だぁ!)
(お爺さんは……殺されたんだ!)
 想像を遥かに越える現実を目の当たりにした二人は、暫くその場を動けずに呆然としていたが……そうしている間にアルバートがベルを鳴らし、駆けつけた執事にお茶を注文していた。そしてまた暫く様子を見ていると、自分たちの母親であるナディアがティーセットを持って執務室に入ってきた。
(あ、ママだ)
(ママがアルバートのお気に入りだっての、本当だったんだ)
 カップにお茶を注ぎながら、ナディアが何やらアルバートに話し掛けていた。天井裏の二人は、必死にその会話に耳を傾けた。
「落ち着かれましたか?」
「うむ、葬儀もひと段落……疲れたが、何とか片は付いたな」
「これで、良かったのでしょうか……」
「……隠し子の事が露見した今、父はその処分を迫ってくるに違いなかった。あの子達を守るには……ああするしかなかったのだ」
 殺しの事を、ママも知っている……ママもグルになってたんだ……と、二人は『オトナ』に対する不信感を抱かずには居られなかった。だが、待て? 『隠し子』って何の事だ? と、新たな疑問が二人の頭の中をよぎった。
「だが、これで双子の秘密を知る者は居なくなった。心配の種は何一つなくなった訳だ」
「それは……そうですが」
 双子の秘密……という言葉を聞き、テルシェとリディアは互いに自分達の事を指差し『私たち?』という感じで目線を合わせた。
「あの子たちは一生涯、出生の秘密を知る事を許されない……我が子ながら、哀れに思えます」
「言うなナディア。テルシェとリディアは確かに私たちの子だが、『クロムウェルの子』であってはならんのだ……私とて辛いのだ」
 ナディアの嘆きに応じる格好で紡がれたアルバートの言葉を聞いて、テルシェとリディアは驚き、再び目線を合わせた。
(いまアイツ……なんて言った?)
(私たちが……アルバートの……子?)
(あっ、リディア! あれ……)
(……!!)
 眼下で会話が途切れたかと思うと、おもむろにアルバートがナディアを抱き寄せ、抱擁からキス、そして着衣を乱してのラブシーンへと淀みなく進む様を披露していた。その一部始終を目撃したリディアとテルシェは、怒りのあまりに声を失い、そして程なくその場を離れ、屋根裏部屋に戻っていった。
「あの二人は、ああやって裏でくっついて……それで生まれたのが、私たちなんだね」
「アルバートには、シンシアって奥さんが居る。ママはアルバートの奥さんじゃない……これってホントはいけない事だよね?」
「で、私たちがアルバートの子だってバレたら、大騒ぎになる……だから私たちは、ずっと隠されてきたんだ」
「これがオトナのやり方なんだ。都合の悪い事は隠して、表では知らん振りしてニコニコしている……」
 自分たちの出生の秘密を知った二人は、徐々にその心の内に怒りの感情が湧き上がってくるのを感じていた。そして、自分たちと親しかった老紳士を殺害した犯人が被害者の実の息子であり、その動機が自分たちの過去の過ちを揉み消すためである事も併せて知る事になった。この事実は、リディアとテルシェが両親を憎む切掛けとしては充分すぎた。
「『私とて辛い』……? よく言うよ、イザとなれば私たちだって、平気で殺すんでしょうに」
「冗談じゃない。生まれがどうだろうと、ぼく達にだって生きる権利はあるんだ……ぼく達は人形じゃない」
 二人の目が妖しい輝きを湛えた。今度は自分達が、あの者たちを謀る番だと。そして知り得た事実を胸に秘め、彼女たちは今まで以上に文献を読み漁り、知識の吸収に努めた。復讐のため、そして自分達が生き残るために、爪を研いでいたのだ。
 そうして更に数年の月日が過ぎ去り、彼女たちは『子供』から『少女』へと成長していた。

********

「アルバート様」
「……!!」
 背後からの声に驚いた彼が振り返ると、そこには見事に成長した双子の姉妹が立っていた。
「お、お前たち……何を?」
「いつか、アルバート様は仰いました。正当に扱って欲しければ、役立って見せよ……と」
「私たちも、こうして大きくなりました。お屋敷のお役に立てる機会を与えてください」
「むぅ……」
 アルバートは、見事に成長した娘達を改めて目の当たりにし、感動していた。表沙汰にはできなかったが、確かに彼女達に対する愛情はそこに存在していたのである。だが、それを悟られる訳には行かない。あくまでも威厳を保ちながら、過去の自分の発言に責任を持つ……といったスタンスで、彼は彼女たちの申し入れを認める事にした。
「よかろう、家事見習いから始めるが良い……と、その前に、身なりを何とかしろ。まず風呂に入って来るんだ。服は用意させる」
 そう。彼女たちは相変わらずのボロ着を身に纏ったままの姿であったため、その格好のままで屋敷の中をウロウロさせる訳には行かなかったのだ。
「リディア、やっと外に出られたね」
「そうだね、テルシェ。長かったね」
 彼女たちが今の年齢になるまで屋根裏で息を潜めながら我慢してきたのには、理由があった。一つは知識を充分に蓄積して、いつ屋敷の外に出されても困惑しないようにするため。そしてもう一つ、体力・体格が原因となるハンディで不利にならぬよう、身体が大きくなるのを待っていたのである。
 ともあれ、二人はこれまでに無いぐらい丁寧に自らの身体を手入れし、ピカピカに磨き上げて浴室を出た。すると、脱衣場には下着からエプロンに至るまで、全ての衣類が用意されていた。恐らくはアルバートの手配によるものだろう。
「んー……」
「下着はともかく、服までがピッタリのサイズなのは……この際、突っ込んじゃいけないのかな?」
 そう。二人は身長などのデータを調査されずに衣服を用意されたのだが、何故かそのサイズがピッタリだったのである。些か気味の悪さを覚えながらも、二人は主――アルバートの前に顔を揃えた。
「アルバート様、身なりを整えて参りました」
 ほう……と、まずは磨き上げられたその姿に、アルバートは注目した。なるほど、これは埋もれさせておくには惜しい美貌である。しかし彼は表情を緩めたりはせず、厳しい口調で、まずは厨房内で皿洗いを手伝えと彼女たちに命じた。今まで屋根裏で過ごさせていた二人を、いきなりフォーマルな場に出す訳には行かないと考えたからである。
 因みに、アルバートの心中には既に、彼女達の存在を秘匿しようだ等という考えは微塵も無かった。それどころか、彼は公の場で二人と接する事が出来るようになった経緯に、喜びすら感じていたのである。
「やっぱ、下働きからスタートだね」
「それは仕方ないよ、初めてだもん」
 経験の蓄積という言葉が理解できない二人ではない。まずは様子見、全体の雰囲気を知った後で下克上を行っても遅くは無い。と言うより、二人にはこの家でのし上がろうと言う思考自体が最初から無かったのだ。
「ねぇ、テルシェ」
「何?」
「いつまで、アルバートに『様』を付けなきゃいけないワケ?」
「この屋敷に居る間は、仕方がないよ。規則と思って諦めよう」
 そう言って、彼女達は目の前の食器類と格闘を始めた。と、そこへナディアが通り掛かり、驚いたような表情を浮かべながら呟いた。
「まさか、貴女たちまでが、ここに来るとは思わなかった……」
「自分の食い扶持は自分で稼ぐ、それだけの事よ」
「いつまでも、おんぶに抱っこじゃ格好が付かないからね」
 冷たく言い放つと、彼女たちは目の前の仕事に取り掛かった。もはやナディアを母親として見ていないという事であろうか。とにかく、一刻も早く復讐を遂げ、この家を出て行く……二人にとっての最優先事項は、まさにそれであった。
(で? アルバートとママに対する仕返しは、いつやる?)
(慌てないで……まだ早いわ。もう少しこの状態が安定して、向こうが安心しきってからよ)
 そう、相手の喉元に喰らい付くには、まず安心させる必要がある。その機会を待って、二人はクロムウェル家の下働きとしてその真意を偽りながら、主であるアルバートと、その家族に仕える『ポーズ』を始めた。この時、二人は12歳となっていた。

********

「あら、見掛けない顔だけど……?」
「お初にお目に掛かります」
「新しく入った下働きの者です、御用があれば何なりとお申し付け下さい」
 ある日、廊下のモップ掛けをやっていた双子を、珍しく邸内に居たシンシアが見付け、声を掛けていた。
「ふぅん……ま、しっかり頑張りなさいな」
「はい」
 二人が揃って返事をすると、シンシアは使用人の顔になど興味はないと言った風に、そっけなくその場を立ち去った。
(……向こうは、ぼく達の顔を知らないんだね)
(そりゃそうだよ、私達はあのオバサンの前に顔を出した事ないもん)
 小声でやり取りを済ませ、二人は何食わぬ顔で掃除の続きに掛かった。何しろ、まだ見習いという事もあって、影から先輩メイドが見張っているのだ。今の会話の内容を聞かれたら、大目玉を食らうところである。
 と、今度はそこに、ルーファスが友人を連れて外出から戻ってきたらしく、玄関先で待機していたメイドに先導されながら歩いてきた。彼は歩きながら、そのメイドに飲み物と菓子を用意するように指示を出していたが、モップ掛けを中断して廊下の隅に避け、道を空けつつ気をつけの姿勢で立っていた双子の前で立ち止まり、ん? というような顔で二人の顔をジッと見つめた。
「お、お前達は!?」
「……お久しゅうございます、ルーファス様。リディアとテルシェです」
「このたび、下働きとして御奉公をさせて頂く事になりました……宜しくお願いします」
 その二人の小さなメイドが、かつて喧嘩をした薄汚い双子だと分かると、ルーファスは一瞬驚きの声を上げたが、ふぅん……と言った感じで二人を一瞥し、ニヤリと笑った。そして下手に出るしかなくなった双子の方は、無表情を装いながらも、コイツにまで『様』を付けなきゃならないのかと、内心で舌打ちをしていた。
「よし、テルシェ。お茶はお前が運んで来てくれ」
「る、ルーファス様! 彼女はまだ見習いです、失礼があっては……」
「俺が良いと言っているんだ。構わないから、彼女にやらせるんだ。いいね?」
「はっ、はい……!」
 思わず割って入る先輩メイドをルーファスが制し、更に彼は強引にテルシェを指名した。テルシェはあくまで無表情を装いながら、更に細かい指示を仰ごうとした。
「……かしこまりました、ルーファス様。お飲み物は何を……」
「細かい指示は彼女に聞いて。お前はそれを運んで来るだけでいい。いいかテルシェ、一人で運んで来るんだぞ?」
「……はい」
 そして、指名されなかったリディアはそのままモップ掛けを続行、テルシェは先輩メイドに指導されながらお茶の用意をする事になった。ティーセットはワゴンの上に乗せられ、茶請けのケーキと一緒に運べるように用意された。
 不愉快さを強引に押し留め、表情を隠しながらティーセットの乗ったワゴンを押して応接間に向かうテルシェを、モップ掛け作業を続けているリディアが呼び止めた。
(引っ叩いちゃダメだからね?)
(大丈夫、まだ本領発揮には早い。分かってる)
 あまり長く立ち止まっていると先輩メイドが怪しむので、二人はいかにも『心配して声を掛けた』感じを装って短くやり取りを済ませた。そしてリディアに向かってニッコリと微笑んで見せると、テルシェはキリッと表情を引き締め、再びワゴンを押し始めた。
「失礼します、お茶をお持ち致しました」
 応接間のドアを軽くノックし、注文の通りにティーセットを運んできたテルシェに、ルーファスとその友人一同の視線が集中した。客は二人居たが、そのうちの一人が物欲しそうな目付きで彼女に注目していた。
「なぁお前、なかなか可愛いじゃないか。どうだ、今度外で会わないか?」
 あろう事か、その友人はテルシェをデートに誘ってきた。が、彼女はいかにも仕事に集中しています、といった雰囲気の演技を続け、全く取り合わなかった。その様子を見てカチンと来たのか、彼はテルシェの肩を掴んで無理やり振り向かせようとした。
「無視する事はないだろう? なぁ、どうなんだい?」
「おいおい、彼女はうちのメイドだぞ? 手を出さないでくれよ。父上に叱られるじゃないか」
 意外にも、ルーファスが強引な態度に出そうになった友人を制止し、その場を収めた。恐らくは彼の手助けがなくとも、彼女の意志でその誘いを振り切る事は出来たであろうが、ここはルーファスに華を持たせてやる事にし、テルシェはあくまで冷静に仕事に集中した。そしてティーセットの配置を完了させると、丁寧に一礼して応接間から退出し、事なきを得た。
(ふぅん……あの物乞い同然だった薄汚い娘が、見事に化けたもんだ……ククッ、これからは頻繁に呼ばせてもらうぜ)
 かつてのイメージを払拭し、美しく成長した双子をすっかり気に入ったルーファスは、彼女達に対して邪な意識を持ち始めていた。つまり、『男性として』彼女達に迫ろうと考えていたのである。
 一方、鋭い眼力でルーファスの企みを見抜いていたテルシェは、廊下に出た途端に表情を崩し、嫌悪感を露わにしていた。
(冗談じゃないよ、お坊ちゃま……アンタなんかに懐柔されるほど、甘くないってのよ。出直しておいで!)
 しかし、初対面であったルーファスの友人に口説かれたという事実は、テルシェの女としての本能に、微かではあるが刺激を与えていた。この事によって、自分には……いや、同じ容姿を持つ自分たち姉妹には、異性を魅了する力が既に備わっている……と自覚するに至った彼女は、薄ら笑いを浮かべながら厨房へと引き返していった。

********

 やはりと言うか……その一件以来、ルーファスは頻繁に双子を呼び付け、自分の身の回りの世話をさせるようになった。どちらかと言うと、髪をセミロングにしているリディアよりも、ボーイッシュなテルシェの方が彼の好みに合っているらしく、呼び出される頻度も彼女の方が高かった。
「テルシェ、ルーファス様のお部屋にお茶を持っていってくれ。アールグレイのミルクティーだ」
「……はい」
 またか……という感じで、テルシェは苛立った感情を押し殺しながら無理矢理に笑顔を作り、執事から受けた指示を淡々とこなした。
「すっかり気に入られたね、テルシェ」
「ホント……でも、どうせならもっと、いい男に気に入られたいもんだよ」
 見送るリディアに苦笑いを浮かべながら、テルシェはティーポットの前に置いた砂時計を眺めた。既に自分の実力……というか、魅力に気付いている彼女は、最早ルーファスなど相手にならない、と高を括っていた。しかし、リディアは……
「……今度はリビングじゃなく、アイツの個室だよ。気をつけて」
 そう、頻繁に呼び出されてはいるのだが、彼女達はいつも冷静に仕事だけをこなし、ルーファスの私情や口説き文句には一切耳を貸さずに、冷たい女としてのイメージを植えつけ続けてきた。が、逆にその事が彼の欲望に火を付けているのか、彼のモーションは段々と激しさを増してきていた。リディアが思わずテルシェに忠告をしたのも、実は彼が暴走するのも時間の問題……と予感していたからである。
「ん、平気……いつものように、軽くいなしてやるわ」
 テルシェは自信たっぷりに笑みを浮かべると、シルバーのトレイにティーポットとミルク、それにシュガーポットを乗せて厨房を出た。

********

「失礼します……」
 ルーファスの個室の前まで来たテルシェが、ドアをノックした。だが、応答がない。不審に思い、もう一度ノックすると、今度は応答の代わりに無言でドアが開き、ヌッとルーファスが顔を出した。そして彼はドアをノックしていたテルシェの右手首を掴み、半ば無理矢理に室内へと誘い込んでいた。部屋の中は明かりが消されており、薄暗いランプが一つ灯っているだけだった。
「何を……!」
 流石のテルシェも驚いたのか、思わず抗議の声を上げようとした。が、その口はルーファスの右手によって塞がれ、発声を封じられてしまった。彼女が運んできたティーセットは、部屋に引き込まれた時の勢いについて来れずにその場で落下し、ドアの前で無残に砕け散っていた。
「ほら……見てみろよ、アレ」
「……!?」
 ルーファスは自室の窓の反対側で明かりの灯っている一室を指差し、テルシェにオペラグラスを手渡した。彼女がその視線を彼の言う通りの方に向けると、そこには……着衣を全て脱ぎ去り、ベッドの上で互いに快楽を求め合う男女の姿が映っていた。
「な? アレ……うちの父上と、メイドだろう? スゲェだろ、子供って、ああやって作るんだぜ!!」
 その光景は、以前に天井裏から至近距離で覗いた事のある行為と全く同じだった。しかも、抱き合っている男女も全くの同一人物。テルシェとしては既に知っている不倫の現場であったので、あぁ、またやってるのか……程度にしか思わなかった。だが、ルーファスはかなりの興奮状態に陥っていた。直前の台詞から、彼が男女の営み自体を知識として知って居る事はテルシェにも分かったようだが、実際にその行為を目の当たりにするのは初めてだったのであろう。彼の表情は、なんとも表現しがたい……かなりいやらしい物となっていた。
「アレを見せるために、わざわざ呼んだ……のですか?」
「へへ、最初はホントに茶を持って来てもらうだけのつもりだったんだがよ、窓からアレを見つけて、慌ててこっちの明かりを消したのさ……こうした方が良く見えるからな」
「……他に用がないのなら、帰らせて頂きます」
 すっかり呆れ果てたテルシェが退出しようとすると、ルーファスは彼女の手を掴み、それを阻んだ。
「おっと……用ならあるぜ? へへ……アレと同じ事を、今ここでやってみようぜ!」
「ご冗談……ッ!」
 次の瞬間、テルシェの小柄な身体は、ルーファスの腕力によって彼のベッドの上に転がされていた。
「父上だって、ああやって母上以外の女を抱いてる……だったら、息子の俺だって……同じ事を楽しむ権利があるよな!」
「理に適っていません……それに、双方の同意がない場合は犯罪行為になるんです、知らないんですか?」
「そんなもん、関係ねぇっ! 俺は今ここで楽しみてぇんだ!」
 すっかり理性を失い、もはや手の付けられない状態になっていたルーファスに対し、テルシェは不思議と冷静だった。既に衣服も剥ぎ取られ、その身体にむしゃぶりつかれて居たが、興奮状態の彼を見ていると、逆にどんどん冷めていった。自分の身体がいいように弄ばれ、この上ない辱めを受けているにも拘らず……である。
 やがて、乙女の証である鮮血が太股を伝った時、彼女は初めてその表情を苦痛に歪め、僅かに抵抗した。そして彼がいよいよ本格的に暴れだそうとした、その刹那……
「……お戯れが過ぎますわ、ルーファスお兄様」
「な、何ッ!?」
 氷のように冷たいその声に驚いたルーファスが慌てて上半身を起こすと、振り向く間もなく彼の後頭部は『ガシャン』という鈍い音と共に、凄まじい衝撃に襲われていた。彼は額から血を流し、白目を剥いてテルシェに覆い被さって来た。その背後には、無表情のまま、鮮血に染まり、下半分を失った花瓶を掲げるリディアの姿があった。
「リディア……」
「……何やってんのよ? 冗談にしては派手すぎるわ」
「別に……? 男女の営みって奴にちょっと興味があったから、乗ってあげただけ。相手は大いに不満だけどね」
「研究熱心なのも良いけど、程々にしないと自滅するよ」
「……リディアがやらなくても、自分でこいつを始末するつもりだった……ま、最初で最後の大サービスってワケよ」
 気だるそうに、その前髪を手櫛でかき上げ、ゆっくりと上体を起こしながら、動きを止めたルーファスを無造作に転がし、今まで以上に冷ややかな目線でそれを一瞥すると……テルシェは太股の鮮血をシーツで拭い取り、ゆっくりと着衣を整えながら淡々とリディアの問いに答えていた。
「ふぅん……で、どうだった? ご所望の、男女の営みって奴は?」
「愛情表現としては、かなり野蛮。これが悦びに変わるとしたら、よほど深い愛情が無いと無理だね」
「そう……」
 ベッドに横たわるルーファスは、既に息をしていなかった。だらりと垂れ下がった腕には二度と力が篭る事もなく、その口から言葉が発せられる事も、永遠に無いだろう。
「……これ、どうする?」
「重そうだし、運ぶ途中で絶対に見付かるね。いっそ、屋敷ごと全部燃やしてやろうか?」
「そうだね……どうせ、いつかは逃げ出すつもりだったんだし」
「あいつらへの報復も、一編に済むってワケね……」
 薄笑いを浮かべながら、二人は彼をベッドに寝かせたまま退室した。そして深夜になるまで息を潜め、皆が寝静まったのを確認すると、彼女たちは照明用の揮発油を床一面にぶちまけ、そこに火を放って、裏口から脱出した。
 燃え盛る屋敷に背を向けながら、彼女達は……今、自分の産みの親も、今までの生活も……全てを捨てたのだという事を自覚した。が、不思議と罪悪感や、後悔といった類の感情は湧いて来なかった。
 街へと姿を消す途中、二人は外出していたために難を逃れたシンシアと遭遇したが、互いに気付かずに擦れ違うだけだった。恐らく彼女は、館の有様を見て愕然とする事であろう。

********

 館や親と引き換えに自由を手にした彼女たちを待っていたのは、最下層の生活を営む民衆の目から集まる好奇の視線だった。
 使用人とはいえ身に着けている衣服は上等のもの、スラムに降り立てば目立つに決まっている。その事に気づいた二人は衣服を処分すると、代わりにボロ布を纏って街の裏通りを転々としながら、その日暮らしの日々を送った。
 やがてその身柄は人身売買を生業とする男たちに捕らえられ、牢と言っても差し支えの無いような部屋の中で、売られていく順番を待っていた。


「15歳以下の少女が、出来れば欲しい。値切りはしないから安心してくれ」


(ほら、クライアントがおいでなすったよ……)
(さてと……今度はどういう所に行く事になるのかしら?)

 店主と会話をしながら、軽やかな靴音を響かせつつ近付いてくる紳士。彼の名はメイヤーと言った……

<了>




野良てじな嬢の同人デビュー作、『夢の軌跡』の外伝その1です。
作者本人ではなく、綾丸が執筆した理由については……単に『他の人にスピンオフを書いて貰いたい』という、本人の希望によるものです(笑)

本編を読んでいないと意味の分からない部分が数箇所ありますが、それでも独立した一本の短編として楽しめるよう、配慮したつもりです。

ここに登場した双子は、以降掲載予定の続編にもちょくちょく登場する予定です。
続編においては本編との絡みが一層強くなっていきますが、外伝は外伝で、単独でも楽しめるよう配慮していきたいと思っています。

……でも、出来れば本編も是非読んで欲しいです(笑)
(2011年11月27日)


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