創作同人サークル『Fal-staff』

『静かなる乙女』

 彼女は今日も、いつもと同じその場所で……摘んできた花を編んで輪にしたり、そのままブーケにしたりしたものを自分の目の前に並べ、簡素な敷物を敷いた地べたにしゃがんで、道行く人波を眺めていた。
 時々、彼女の前に足を止めて、小さなブーケを手に取り、代わりにコインを一枚手渡して去っていく者もいた。どうやら、それが彼女の生活の源であるらしい。
 その日は雨が降っていた。
 仕立ての良いスーツの上にレインコートを纏い、更に黒い傘で身を固めた若い紳士は、いつもと同じ場所で、薄汚れた布を纏っただけの雨対策をして、いつもと同じように花束を売っている少女を見つけていた。
「今日もまた、同じ場所、か……あれでは風邪をひいてしまうな」
 紳士はスッと彼女に近付くと、彼女の頭上に傘を差しながら問い質した。
「この花束、全部でいくらかな?」
 その問いに、彼女は両手の指を全て広げ、10本の指をかざして見せた。
「銀貨10枚……でいいんだね?」
 紳士がそう言うと、少女はゆっくりと頷いた。
「じゃあ、その花束、全部買おう。だから今日はもう店じまいにして、お家に帰りなさい」
 少女は驚いて、暫く呆然として居た。が、やがてブーケを全て纏めて綺麗に束ね、紳士に手渡した。
「綺麗な花だ、早速飾らせてもらおう。さあ、代金の銀貨10枚と……ほら、この傘もあげよう。これなら濡れないだろう?」
 流石にこれにはビックリしたのか、少女は銀貨は受け取ったが、傘は受け取ろうとしなかった。そこまでしてもらう訳にはいかない……そう考えたのだろう。
「遠慮する事はない。これでは身体が冷えて、風邪をひいてしまう。そうなると、明日は商売ができなくなって、困るだろう?」
 ニッコリと自分の顔を覗き込む紳士の、真っ直ぐな目線に頬を赤らめ、なおも彼女はその場でジッとしていた。が……やがてポケットから一枚の紙片を取り出し、紳士に手渡して、ふいっと顔を背けて走り去ってしまった。傘は受け取らずに。
「どうしたのだろう……?」
 走り去る少女の後姿を、見えなくなるまで眺めていた紳士は、ハッと思い出したように、手渡された紙片に目を落とした。そこには綺麗な文字で『ありがとうございました』と、一言だけ書かれていた。
「……面白い子だ」
 ふっ、と思い出し笑いを浮かべた後、紳士はブーケをその手に抱えつつ、家路についた。

********

 数日が過ぎ、紳士はあの雨の日と同じ場所に行ってみた。単に使いの通り道にあたる場所だったので、特にその場所に用があった訳ではなかったのだが、何となく気になったのだ。が、あの少女の姿はそこにはなかった。
(やはり、風邪をひいてしまったのかな?)
 その時はそう思ったのだが、その後、何度そこを訪れても、少女の姿を見ることは出来なかった。珍しく彼の印象に残る少女であったので、彼は『あの日、もっと情報を集めて置けばよかった』と後悔していた。
 カララン……と音を立てて、扉を開く。紳士は、彼女が花を売っていた場所のすぐ後ろにある喫茶店に入り、お茶を注文した。
「……すみません、お尋ねします。この場所で花売りをしていた少女を、ご存知ありませんか?」
 紳士は、店主と思しき男性に尋ねた。
「花売りの少女? あぁ、ラティーシャの事か。そういえば、暫く見てないねぇ」
「ご存知なんですか?」
「ご存知も何も。この店にも良く、花を届けてくれてねぇ。助かってるんだよ。なんせホラ、この辺りは建物に囲まれていて、殺風景だからねぇ。あの子の摘んでくる花は、ここを訪れる者の目の保養だよ」
 初老の店主は目を細め、とくとくと語り出した。が、その彼をしても、彼女の名前以外の素性は知らぬようで。何処に住んでいるのか、親兄弟はいるのか、といった情報は手に入らなかった。
「そうそう、あの子はね。天気の良い日には、こうして詩を書いて、ブーケに添えてくれたりもするんだよ」
 店主が見せてくれた一枚の紙片には、思わず心が和むような、美しい言葉で綴られた詩が書き添えられていた。恐らくは花束を買ってくれた人へのメッセージなのだろうが、そのセンスは素晴らしく、また詩と一緒に描き添えられたイラストも、かなり目を引いた。このまま額に入れて窓辺に飾っても、見た者の心を和ませるだろう。その紙片には、それほどの魅力があった。
「いつ頃から、居なくなったのですか?」
「んー、10日ぐらいになるかねぇ。おかげで、花ももう枯れてしまってね。私としても、あの子が戻って来てくれるのを待っているんだよ」
「そうですか……」
 そんなに長い間姿を見せないという事は、商売をする場所を変えたか? しかし、こうして名を覚えられるまで馴染んでいる彼女が、そう簡単に場所換えをする訳はない。だとすると、やはり病気にでもなったか……? と、紳士は考え込んだ。
「……ご馳走様でした。また来ます、もし彼女が顔を出していたら教えてくださいませんか?」
「え? あぁ、いいですよ。お客さんも、あの子が好きになったんですか?」
「そんなところです」
 紳士は、ニコッと笑って店を後にした。だが、数ヶ月が経過しても、彼女がそこに戻って来る事はなかった。

********

 更に暫く時が経った頃、紳士は仕事で、とある所へと赴いていた。注文に応じた人材を揃えてくれる場所……と言えば聞こえはいいが、要するに人身売買を営む者の店舗である。既に奴隷制度こそ禁止されて居たが、使用人をお金で売買したり、性風俗を生業とする者が娼婦を仕入れに来たりする事は当然のように行われていたので、その店舗も『合法』なのである。
 紳士は、薄汚れた待合所のような場所に通され、そこに現れた店主と思しき男に対して注文を付けていた。
「15歳以下の少女が、出来れば欲しい。値切りはしないから安心してくれ」
「いやはや、大変申し訳ないのですが。年端もいかぬ少女は、やはり人気でして。個人用でしょうか? 差し支えなければ好みや用途などを教えてくださいますと助かるのですが、旦那様」
「ああ、そうだね。少女館といえば、隠さずに譲ってくれるかな」
 『少女館』の名を聞いて店主は顔色を変え、慌てて紳士を上等な応接室へと通し直しつつ、少女達の選別を急がせた。然もありなん、『少女館』と言えば、この一帯では知らぬ者などいない、名門クリフォード家の運営する淑女養成機関。その門をくぐる事が出来るのは、まさに一握の者たちだけ……つまりこの紳士は、その『ダイヤの原石』を買いに来た男、という事になるのだ。一介の人売りに過ぎない、店主たちが慌てるのも無理からぬ事である。
「お待たせいたしました。めぼしい所を選りすぐって参りましたが、如何でしょう?」
 選ばれた少女は、全部で23人。にっこりと笑みを向ける少女、虚ろいだ瞳で空の一点を見つめる少女、紳士の容姿に頬を赤らめる少女と様々だった。が、店主が鼻を高々と上げて自慢するだけの事はあり、その中に醜い容姿の少女は一人もいなかった。
「ふむ、なかなか良いものがそろっているね。では、選ばせてもらうよ」
 紳士は一人ひとりに様々な質問をし、その間に目線の動きを見たり、対話中の態度に注目したりしながら真剣に少女達を吟味した。そうして12名の少女が選ばれ、紳士に導かれながら店外へと誘導されていった。
 店外へと出る途中の通路で、紳士は偶然にも、少女達が『保管』されている部屋の一部を目撃した。当番の者が交代する際に出入り口の扉を開けた瞬間に出くわした為であるが、その時、その奥に見覚えのある顔を一瞬だけ見た気がして、彼は思わず足を止めた。
「ど、どうなさいました?」
「いや……君たちの目を疑う訳ではないのだが、人にはそれぞれに好みというものがある。それは知っているね?」
「は、はぁ……」
「ならば、その扉の奥にいる者の中にも、私の目に適う人材が居る可能性があるのではないか……と思ってね」
 紳士の台詞に、店の者は一瞬驚いたような顔を見せたが、反論する者は居なかった。
「なるほど、道理ですな。では、少々お目汚しとなるかも知れませんが……さぁどうぞ。ごゆるりと」
 檻に入れられた女達……そこには、年端も行かぬ少女も居れば、既に年増となった女性もいた。ただ、店主達の選別はかなり的を射ていたようで、応接間に通された23人の少女を凌駕する魅力の持ち主は居なかった……ある一人を除いては。
「店主、そこに居る少女と話をさせてくれ」
「……!?」
 指名された少女はビクッと身を竦ませ、怯えるように紳士の方へと振り向いた。
「や、それは結構なのですが、しかし……」
「……? 何か問題が?」
「いえ、何でも……おい、応接室の用意を急げ」
「いや、ここで結構。手間を取らせる訳には行かない」
 そう言うと、紳士は檻の外に出された少女と対峙し、ニッコリと微笑んだ。
 紳士は勿論、既に少女を知っていた。少女もまた、紳士の顔には見覚えがあった。だからこそ、こんな場所での再会を恥じて、少女は赤面しつつ顔を伏せていた。が、紳士はその事を遭えて隠して、形式に則った質問を始めた。
「君が、一番好きな花は何だい?」
「…………」
 少女は答えなかった。いや、答えられないのだ。その様子を一瞬、怪訝に思った紳士であったが……彼はふと、あの雨の日の事を思い出した。あの日も彼女は声を出さず、礼の言葉も文字で渡されたのだという事を。
「ちょっと、ごめんよ」
「……!!」
 紳士は、申し訳ないと思いつつも、少女の白く小さな手の甲をやや強くつねり上げ、反応を見た。すると、思った通り……痛がって涙を浮かべはするのだが、その苦悶の表情からは悲鳴どころか、呻きすらも漏れては来なかった。
「……そういう事なんですよ。この子、容姿は整っているし、賢いんですが……この通り、全く声を出せないんで」
「わかった。彼女も買おう。他の少女達と一緒に、馬車に連れて行ってくれ」
「……!? だ、旦那様! ご説明した通り、彼女は……」
「承知の上だ。言っただろう? 様々な需要があるものだ、と」
 紳士がそう言い放つと、店主はもう何も言わなかった。そして紳士が『また今度も頼むよ』と言って場を締めると、店主以下の店の者が深々とお辞儀をしながら見送る中、軽やかな車輪と蹄の音を立てながら、馬車は店舗を後にした。
「君たちは、これから新たな主君の下で生活しながら、改めて教養を身に付けて貰う事になる……あぁ、そう緊張しなくて大丈夫。主は優しいお方だ」
 そんな説明をしながら、紳士と13人の少女達は馬車に揺られ、少女館への道のりを急いでいた。
「さっきは痛かったかい? 済まなかったね。許しておくれ、ラティーシャ」
「……!?」
 この人、どうして私の名を……? といった感じの表情で紳士を見詰め、必死に態度で問い掛ける少女――ラティーシャ。が、紳士はニッコリと微笑みながら黙っている。今その問いに答えてしまっては、他の12人の少女が怪しむだろう。だから彼は、敢えて沈黙を守っていたのだ。
「これから君達が行く場所は、『少女館』という。覚えておいてくれ」
 そう言って少女達に背を向けると、それ以降、彼は口を結んで一言も喋らなかった。が、偶然を装ってラティーシャの隣に座り、他の少女からは見えないように、マントで手元を隠しながらラティーシャに一枚の紙片を手渡した。それが、先ほどの彼女からの質問に対する、彼の回答だった。その紙片は、彼女がいつも花を届けていた喫茶店の店主から貰った、彼女自身が書いたポエムカードだった。それを見て、ラティーシャは彼が自分の名を知っている理由を理解し、改めてニッコリと微笑んだ。

********

「メイス様、如何でしょう?」
「文句など無いよ、メイヤー。君はやはり良い目をしているね」
 屋敷へと到着した少女達は、まず身なりを綺麗に整えられてから、紳士――メイヤーの主君、メイスの前へと集められていた。
「……では、さて。君達の名前を教えてもらってもいいかな?」
 メイス・クリフォード――この館『少女館』を統べる男は、新しく連れて来られた少女達一人ひとりに、丁寧に語りかけ、彼女達の名前やプロフィールなどを確認した。最初に声を掛けられたタバサという少女は、最初フルネームを『タバサ・エーミス』と名乗ったが、このクリフォードの子供として買われたのだから、今日からは『タバサ・クリフォード』と名乗るようにと訂正されていた。
 オリーアナ、シンシア、シャロン、シエナ、リディア、テルシェ、ノエル、メロディ、リネット……次々に自己紹介が済み、いよいよラティーシャの番となった。
「どうしたね? さ、名前を教えておくれ」
「…………」
 メイスはジッとラティーシャの瞳を見据え、返事を待った。が、彼女は答えなかった。モジモジと俯くばかりで、何も出来ずにその場に立ち竦んだままだ。怪訝に思ったメイスがメイヤーの方を見やると、彼は漸く彼女をフォローするかのように補足説明を行った。
「彼女は、名をラティーシャと申します。故あって声を授からずにこの世に生を受けたようですが、読み書きは達者。そして、その美的センスには目を見張るものが御座います」
 そして彼は、彼女直筆のポエムカードをメイスに差し出した。
「これを、彼女が……?」
「はい、メイス様。彼女は元・街の花売りで。ブーケを買う客一人ひとりに、即興でポエムを添えて渡していたのだそうです」
 説明を終えると、彼はラティーシャに近寄り、そっと耳打ちをした。他にアピールしたい事は無いかな? と。すると彼女は、メイヤーの掌にサラサラと指で文字を書き始めた。
「……良いんだよラティーシャ、堂々としていなさい。臆する事はない、君はただコミュニケーションの手段を一つ欠いているだけなのだから」
 どうやら彼女は、ここは自分には場違いであると、メイヤーに訴えたらしい。が、メイヤーは優しくそれを否定した。そしてその手を握り返し、ニッコリと微笑むと、彼女も漸く笑顔になり、再びメイヤーの掌に短くメッセージを書いた後、スカートの端を軽く持ち上げてお辞儀をし、メイスに対して改めて挨拶をした。
「よろしくお願いします、と申しております」
「メイヤー、君は本当に良い目をしているね」
「……恐れ入ります」
 こうして、今日新しく入ってきた少女達の面通しは無事に終わり、クリフォード家での新生活が始まった。

********

 ラティーシャは、常に万年筆とメモ帳を携えていた。声を出せないハンディを筆談で補っていたのである。メイドや、大多数の少女達とはこの手段でコミュニケーションが成立していたが、中にはその煩わしさを嫌い、彼女に対して意見を述べ、イエスかノーかの二択のみを求めるといった手段で済ませるだけの者も居た。そうした者の態度は、一見冷たいように見えたが、実はラティーシャに余計な手順を踏ませずに済ませようという一種の心遣いであり、決して彼女は敬遠されている訳ではなかった。
 しかし、メイヤーと対話をする時だけは例外で、彼女は彼の手に直接メッセージを書くことで意思を伝えていた……いや、彼に対してのみというのには理由があって、実は彼女は他の少女達やメイドにも同じ手段を試したのであるが、誰も彼女の指文字を読解できず、結局、その手段が使えるのはメイヤーのみという結果になってしまったのである。
「ねえメイヤー、貴方はどうしてラティーシャの言葉を直接受け取れるの?」
 自分達にとっては難解なあの手文字を、あっさり読めてしまう事に驚いたテルシェが、メイヤーに質問した。
「どうしてって……手に文字を書かれているだけなんだし、君達にも分かると思うけど」
「わかんないよ、くすぐったいだけだし。文字だと理解する前に手を離しちゃうもの」
「それじゃあ、読めなくて当たり前だよ」
 苦笑いを浮かべながら応えるメイヤーに、テルシェは軽く頬を膨らませて拗ねて見せた。そんな二人のやり取りを見ながらも、当のラティーシャはどう対応して良いか分からずにオロオロしていた。
「そうだ! ラティーシャ、何か喋る真似をしてみてよ。ぼく、読唇術が使えるんだ!」
 無邪気に言い放つテルシェであったが、ラティーシャは相変わらずオロオロしたままだ。そんな彼女を見てイライラして来たのか、徐々にテルシェの語気が荒くなっていった。
「どうしたの、どうして何も反応しないの? ひょっとして無視してるの!?」
「……!!」
 テルシェの発言に、ラティーシャは慌てて両手を横に振り、否定の意味を表すジェスチャーで応えた。すると、その様の一部始終を傍で見ていたリディアが、ボソッとフォローを入れてきた。
「……元から喋れないんだとしたらさ、声を出すときの口の形も分からないんじゃない?」
 そのフォローに、ラティーシャは大きく首を縦に振って肯定の意味を表すジェスチャーをした。なるほど、一度も発音した事が無ければ、発音時の口の形だって分からなくて当然。だとすれば、読唇術になど何の意味も無いだろう。
「惜しかったね、テルシェ。でも積極的にコミュニケーションを取ろうとしたのは感心だよ」
 メイヤーは、テルシェの頭を撫でながら彼女の行動を褒めていた。が、テルシェは面白くなかった。ぷぅっと頬を膨らませたまま、顔を背けていた。どうやら、読唇術が通じない理由について考え及ばなかった事が口惜しかったようだ。
「演技じゃないの? 本当は喋れるんじゃないの?」
 テルシェは意地悪く、問い続けた。そこでラティーシャはポケットからメモを取り出し、サラサラとその場でなにやら書き添えて、テルシェに手渡した。
『嘘じゃないの、本当に喋れないの。ごめんなさい』
 メモにはそう書かれており、テルシェがメモから視線を上げるのを見計らって、ラティーシャは更に頭を下げていた。
「ラティーシャ、卑屈にならなくていいと言ったはずだよ。テルシェも、意地悪を言うのはやめなさい」
「……ふんっ!」
 メイヤーの注意がとどめになったのか、テルシェはラティーシャに渡されたメモをクシャッと握り潰し、その場に投げ捨てて、面白くなさそうにその場を立ち去った。その後を追うように、リディアも退場していった。
「しょうがないな……彼女には後でフォローを入れておくか。ラティーシャ、今の事は気にしないように。いいね?」
「…………」
 小さく頷いて了承の意思を見せるラティーシャだったが、その表情は寂しそうだった。

********

「にゃあ」
「……?」
 何処から入り込んだのだろう、いつの間にやら一匹の猫が、ラティーシャの足元に擦り寄って来ていた。彼女が腰を落とし、そっと抱き上げると、猫はごろごろと喉を鳴らして腹を見せた。よほど安心しきっているのか、それともラティーシャの雰囲気が気に入ったのか。猫はリラックスしたまま、彼女の掌の温もりを求めて甘えていた。
(あなたは、一体何処から来たの? こうしているのは楽しいけど、人に見付かったら大変、悪くすれば傷つけられてしまうかも知れない。さあ、そろそろ身を隠しなさい。いつまでもここに居ると危ないわ)
 その頭を撫でながら、ラティーシャは念を送るように猫に対しての意思を強く思い浮かべた。と、猫はうっすらと目を開け、にゃあ、と鳴いて身を起こし、今度はラティーシャの肩の上に飛び移って、頬に身体を摺り寄せてきた。
(ああ、もう……ダメだと言っているのに、しょうのない子)
 我が子を叱ろうにも叱れない、母親のような心境……とでも言おうか。早くこの場を去りなさい、という想いに反して、猫を傍に置いておきたいという本音が邪魔をして、なかなか離れる事が出来なかった。困ったラティーシャは、猫を肩から抱き下ろし、膝の上に抱きなおして、先程より強めに念じてみた。
(さあ、もう行きなさい。他の人が来たら、あなたはきっと追い立てられてしまう。そんな姿は見たくないの)
 今度は、猫も目をパッチリと見開いて、にゃあ、と鳴いて応えた。そしてラティーシャの膝からひらりと飛び降り、背を向けたが……まだ尻尾を振りながら、名残惜しそうに彼女の方を見ていた。しかし次の瞬間、急に身構えたかと思うと、サッと机の上、さらに戸棚の上へとヒラリヒラリと乗り移り、ものの数秒で完全に姿を隠してしまった。呆然としたラティーシャが立ち上がると、背後のドアが開いて、一人のメイドが室内に入ってきた。
「あら、居ない……変ね、確かに猫の鳴き声が聞こえたのだけど」
 キョロキョロと部屋中を見回して、メイドは不思議そうな表情を浮かべた。おかしい、この部屋の中から鳴き声が聞こえたと思ったのだけど……と。そしてラティーシャは、その様をチラチラと伺いながら、猫の無事な脱出を祈っていた。
「ラティーシャ、今ここに猫が……居たようですね。ほら、服に毛が付いていますわよ」
 確たる証拠を指摘され、ラティーシャは慌てた。しかしもう遅い、自分が猫と接触していた事はもう露見してしまった。
「猫は何処に行ったのですか? ラティーシャ」
「…………」
 困ったように目を伏せたあと、ラティーシャはゆっくりと首を横に振り、知らないと答えた。が、メイドは追及の手を緩めなかった。
(ダメだ、誤魔化せてない……)
 メイドの追及に耐えかねて、ラティーシャは渋々と猫が飛び移ったのとは逆側の戸棚を指差し、手まねで動物が飛び移るような仕種をしてみせた。
「そうか、戸棚の上から逃げたのね……分かりました、ありがとうラティーシャ。もう、隠してはダメですよ?」
「…………」
 コクリと頷くラティーシャに笑顔を向けた後、メイドはサッと戸棚の上を見渡し、既にこの室内には猫の姿が無い事を確かめた。そして次の部屋を調べるためか、急いで退室していった。ラティーシャはホッと胸を撫で下ろしたが、反面、猫の逃亡を手助けするためとはいえ、咄嗟に嘘をついてしまった事を内心で申し訳なく思っていた。
「……にゃあ」
「……!!」
 驚いた。既に逃げ遂せたと思っていた猫が、まだそこに居たのだ。
(ダメ! そこに居ては……)
 ラティーシャは慌てて、身を隠すよう猫にジェスチャーを送った。そんな様子を見て、猫は一瞬目を細めて顔を洗う仕種を見せた後、クルリと身を翻し、スッと姿を消してしまった。今度は本当に脱出したらしく、猫が顔を出した戸棚の周りを幾ら見回しても、その姿は見えなかった。
(無事に逃げてね……)
 既に見えなくなったその姿を思い浮かべながら、彼女は今度こそ逃げ遂せてくれと、心の底から祈っていた。

********

「ねぇ、ラティーシャ。いちいちメイヤーの手を握るの、やめてよ」
「……!?」
 唐突に言い渡されたその一言に、ラティーシャは狼狽した。問答の相手はテルシェ。どうやら彼女はラティーシャがメイヤーとのコミュニケーションの手段として用いている、指文字のサインを送る際の『手を握る』という行為が気に入らないらしい。
 しかし、やめろと言われても困る。あれは自分にとって、皆が言葉を喋るのと同等の行為であり、コミュニケーション手段の一つ。単なるスキンシップだと思っているのなら、それは誤解だ――ラティーシャはテルシェにそれを伝えようとしたが、生憎その日に限って、携帯している万年筆のインクが切れていた。
「なんか答えなよ。無視されんの嫌いなんだよ、ぼくは!」
 テルシェは一人で苛立ちを爆発させていた。その間にも、ラティーシャは万年筆を振ったり、先端に息を吹きかけたりして、何とかその機能の回復に努めようとしていた。が、どうにも事態は好転しなかった。
「ほんっと、イライラするよ……メイヤーもメイヤーだよ、こんな話もロクにできない奴、拾ってくるなんてさ!」
 やがて苛立ちがピークに達したのか、テルシェは必死に万年筆と格闘するラティーシャを制止して、強引な二者択一を迫った。
「わかったよラティーシャ、じゃあこれにだけ応えて。もうメイヤーと手を繋がないって約束して。OK?」
 それは、ラティーシャにとって無理な要求であった。重要なコミュニケーションの手段を、ヤキモチの為に封じられたのでは堪らない。流石にこれを了解する訳には行かないと、彼女は目を伏せて首を横に振った。が、それを不服と捉えたテルシェは、表情を強張らせた。
「もう一度言うよ? メイヤーと手を繋がないで。OK!?」
 同じ質問を、テルシェはやや語気を荒げて繰り返した。しかし、ラティーシャの回答も変わらなかった。その反応を受けて、ついに怒りが頂点に達したテルシェは、ラティーシャの襟首を掴んで威嚇を開始した。
「手ぇ、繋ぐなって言ってんの……わかった?」
 それでもなお、否定のジェスチャーを続けるラティーシャを、テルシェは今度は床に叩きつけるように横転させ、その横顔を靴で踏みつけながら、4度目の質問を……いや、極めて脅迫に近いニュアンスに変わった、一方的な要求を行っていた。
「……やめる?」
 顔を踏みつけられ、目に涙を溜めながらも、ラティーシャはその意志を曲げなかった。そんな彼女を見て、テルシェは一層腹を立てていた。
「……くっ……コイツ!」
「いやぁ、思ったより強情なんだねぇ、アンタさぁ」
 今までの経緯をやや後方から見ていたリディアが、ついにテルシェに加勢してきた。
「私達をここまで舐めてくれた根性は認めるよ。けど、根性が立派ってだけじゃ、私達へのスジは通らないんだなぁ」
「……!!」
 筋違いな事を言っているのはそっちだ、と……滅多に怒りの感情を出さないラティーシャが、ついにその意思を爆発させた。彼女は、自分の顔を踏みつけているテルシェの足を掴み、強烈に念じた。
『いい加減にして!!』
「……!? リディア、何か言った?」
「え? なに言ってんの、テルシェ?」
 テルシェは何者かに話し掛けられた気がして、思わずその場に居る中で、唯一言葉でコミュニケーションの取れる相手であるリディアに、おかしな質問をした。しかし、当のリディアはラティーシャに向かって啖呵を切っている真っ最中で、テルシェに話し掛けた覚えなど無かった。
『いい加減にしてって言ってるの! 早く足をどけてよ!』
「いっ!? ま、まさか……!?」
 コイツが言ったのか!? と、テルシェはギョッとして足の下の顔を見た。と、そこには、今までに見たどんな相手のそれよりも、凄まじい怒りの感情をむき出しにした目線で自分を睨んでいる、ラティーシャの顔があった。
 次の瞬間、ラティーシャは自分の顔の上に乗っている障害物をどかそうと、両手でテルシェの足首を掴み、あらん限りの力を込めて前方に押し返した。その行為により、軸足のバランスを失ったテルシェは、加重の殆どを強引に後方に移動させられ、ほぼそのままの格好で背中から床に叩きつけられていた。
「コイツ! 今しゃべった!!」
「は!? 何を言ってるのテルシェ?」
「ホントだって! 確かに『足をどけろ』って!!」
 テルシェは驚きのあまり、ラティーシャを指差しながら、聞こえるはずの無い台詞を繰り返した。だが、リディアは訳が分からんといった風な感じで、尻餅をついたままの格好のテルシェを見下ろしていた。
 やがて、頬に擦り傷と痣を付けられたラティーシャがゆっくりと立ち上がり、一連の有様に付いて来れないリディアを一瞥したあと、未だに倒れたままの格好のテルシェに手を差し伸べた。が、テルシェはその手を払いのけ、自力で立ち上がって、なおもラティーシャを睨み返していた。
 また、ラティーシャも、いま自分が念じた事を、どうしてテルシェが口に出しているんだ? という事を不思議に思っていた。このとき彼女は、所謂『テレパシー』に覚醒していたのだが、本人もまだそれを自覚していなかったのである。
「そ、空耳だった……? いや、確かに聞こえた! しかも『足をどけろ』って、ぼくに……『命令』した!!」
「その空耳はともかく、これは……かなりのお仕置きが必要みたいだね!」
 しまった、これでますます相手を怒らせた……と、更にまずい状況を自ら作り出してしまった事に気が付いて、ラティーシャは慌てた。しかも今度はリディアも戦闘体制を整え、状況は2対1。助けを呼ぼうにも、自分は悲鳴を上げられない。この状況を打破するには、とにかく相手を宥めるしかないだろう……それは分かっているが、急には良い手段が思い浮かばなかった。テレパシーは自覚していないし、それ以前に今、目の前の相手が手を繋いでくれるなんて、夢にも思えない。しかも、更に悪い事に、今や相手の怒りの論点はすっかり入れ替わって、二人とも自分を標的として狙っている……が、意外なところで隙が出来た。
「空耳じゃないよっ! 確かに聞こえたんだ! リディアのじゃない、聞き覚えの無い声が!」
「だから、私には何も聞こえなかったんだって!」
 テルシェが『聞こえた』と言い張る声を、リディアは『聞こえなかった』と否定し、二人は言い争いを始めてしまったのだ。逃げるなら今だ……が、今ここで逃れても、一人きりになった所を狙われれば、きっとまた同じことの繰り返しが待っている。何とかして、この機会に手を打っておかなくては、状況はいつまで経っても好転しないだろう。そう思ったラティーシャは、咄嗟にインク切れで書けない状態の万年筆を取り出し、キャップを外して自分の目の前にそれを構えた。
「……!!」
 キラリと光るその先端を武器にして立ち向かうつもりかと、テルシェとリディアは思わず身構えた。が、何とラティーシャはその先端を、自らの左手に付き立てたのだった。ペン先の突き刺さった手の甲からは、ジワジワと血が滴り落ちる。一体何を考えているんだ……? と見守る二人の目の前で、ラティーシャは更に意外な行動に出ていた。
『テルシェ、さっきは手荒な真似をして、ごめんなさい』
 ラティーシャは、自らの血を、左手の傷口から抜き取った万年筆のペン先に付けて、メモ帳に字を書いていたのだ。
『私は、こうして紙か、相手の手に直接字を書かないと、意思を伝えられません』
『お願いです、私から意思伝達の手段を奪わないで』
『私はメイヤーに特別な感情は持っていません。掌に字を書いているだけです、あれは会話なのです』
『だから勘弁して』
 相当痛いのだろう。ブルブルと震えながら、ラティーシャは必死に、且つ正直に自らの言い分を伝えた。テルシェたちは互いに顔を見合わせ、些か困惑したような表情を一瞬見せた後、再びラティーシャの方に向き直った。そして……
「ハァ……何だか毒気抜かれちゃったよ」
「……本当だろうね? この、メイヤーを何とも思ってないってトコ」
 コクコクと、ラティーシャは首を縦に振って肯定の意思を見せた。
「ふん。ぼくに命令したり、転ばせたりしたのは気に入らないけど……貸しにしといてやる。そのかわり!」
 キッと目線をきつくして、ギロリとラティーシャの目を睨んだまま、テルシェは彼女に『命令』していた。
「その頬と左手の傷、ぼく達の所為にするなよ!」
「今日のところは、その必死なアクションに免じて、引いてやる。次は容赦しないからね」
 ほうっと、ラティーシャの顔に安堵の色が戻った。そして、テルシェ達が退出すると、気が抜けたのか……スウッと血の気が引き、ガクッと膝を折ってその場に倒れ、そのまま気を失った。彼女が通りすがったメイドに見つけられ、手当てを受け、意識を取り戻したのは、生まれて初めてのケンカを体験した瞬間から、数時間が経過した後の事だった。
 なお、事件の真相を秘匿しろと命じたテルシェとリディアであったが、ラティーシャの手元に残った血染めの万年筆とメモ帳、そしてメモの内容からアッサリと全容を看破され、しかるべき処置を施されたという。が、それが彼女達にとって痛手となったかどうかを問えば、答えは『否』であった。

********

 数日後の夕刻、ラティーシャの左手の傷痕を気遣ったメイヤーが、彼女の私室に見舞いに来た。
「ラティーシャ、具合はどうかな?」
「…………」
 ラティーシャに声を掛けた後、メイヤーは彼女からの回答を貰うために手を差し出した。そして彼は、いつものように手に書かれる文字を一文字ずつ読み取っていたが、その時、ある事に気付いた。彼女が全ての文字を書き終わらぬうちに、何を言いたいのか全て理解してしまったのである。
「『痛みは和らいだが、今度は傷口の周りの痒みが気になるようになった』……かな?」
「……!?」
 台詞を全て暗誦したメイヤーも驚いていたが、それよりも驚いていたのはラティーシャ自身だった。
「ラティーシャ。今度は指を使わず、手を添えるだけにして、何を言いたいか考えてごらん?」
「…………」
 コクリと頷いたラティーシャは、メイヤーに言われた通り、手を添えるだけにして、万年筆で左手を貫いた経緯を念じてみた。
「……何、あの時頬に付いていた痣は、転んだ拍子に付いたものではなく、テルシェに踏みつけられたために出来た……だって?」
「……!」
 ラティーシャは試しに、あの時起きた事の一部始終を思い起こして念じてみた。すると、それが見事に、全てメイヤーに伝わったのである。
(そういえばあの時、テルシェの足を掴みながら『足をどけて』と念じたら、それは彼女にだけ伝わって、リディアは聞こえなかったと否定した……そうか、そういう事だったんだ!)
 ラティーシャはこの時点で漸く、自らにテレパシー能力が備わった事を自覚したのだった。手を握ったままの格好だったので、彼女は今気付いたその事実も、メイヤーに向けて強く念じた。
「……ふむ、なるほど。こうして身体の一部分に直に触れていないと、思考を伝えられない……と。そういう事だね?」
 コクコクと頷いて、ラティーシャは笑顔を見せた。ここまでスムーズに意思疎通が出来たのは初めてなので、かなり嬉しかったのだろう。
「しかし驚いたな……何かの本で、超能力というものがあるという事は読んだ事があるのだが。まさか、それを実際に体験する事が出来るようになるとはね……間違いない、これは『テレパシー』という超能力だ」
 メイヤーは複雑そうな顔をしていた。言葉が耳からではなく、直接頭脳に伝わってくるような、妙な感覚。こんな体験は初めてだったからである。
「じゃあ、僕が考えている事を、当てる事は出来るのかな?」
「…………」
「……そうか、分かった」
 ラティーシャはそれを試してみたが、相手の思考を読み取る事は出来ないようだった。だが、むしろその方が都合は良かった。いちいち相手の思考まで読み取ってしまったのでは、知りたくない事まで知ってしまう恐れがあったからである。
「この力、僕以外にも有効なのかな?」
『テルシェに伝わったのは確かです。ただ、あの時はこんな能力の事なんて意識してなくて。足をどかして欲しくて、夢中で念じていただけなんですけど』
「テルシェのやった事に関しては別途考えるとして……ふむ。取り敢えず相手を選ばず、誰が相手でも使える可能性があることは分かった。これで少しは、やり取りが楽になるんじゃないかな?」
『だといいですけど……何せ、こうして手を繋がせて貰えないと、使えないみたいですから……』
 苦笑いを浮かべつつも、ラティーシャは今までの意思疎通の範囲の狭さを考えれば、飛躍的な進歩だと喜んでいた。
「そうそう、君にいいものをあげよう。小型だが、とても大きな音の出る笛だ。今度から、何かあったらそれを吹いて、助けを呼ぶといい」
『嬉しい……ありがとうございます。これなら人気の無い所でも助けを呼べますね』
「そういう事だ。この間の件も、君が悲鳴を上げられれば防げた事。こうなる前に対策しなかった、僕のミスだ」
 そう言ってメイヤーは、紐のついた小さな警笛を、ラティーシャの首に掛けてやった。
(そんな事ない、決してメイヤーの所為なんかではないのに……本当に優しい人)
 と、そこまで考えたところで、ラティーシャはハッとして思考を止めた。理由は分からなかったが、今の思考をメイヤーに知られるのはまずい気がしたからだ。が、幸いにして、メイヤーの両手は警笛を提げるための動作を行うため、彼女の体には触れていなかったので、今の思考は『独り言』となった。その時ラティーシャの頬は、仄かな桜色に染まっていた。
「ただし、悪戯で吹いてはいけないよ?」
『そんな事、しません』
 最後に冗談めかした会話を交わし、二人は楽しげに笑いあった。ラティーシャは、ああ、これが談笑というものかと、初めての体験に胸を躍らせていた。

********

 テレパシーの覚醒から、ラティーシャはそれまでハンディキャップによって内向的になっていた面を拭い去り、積極的に周りの少女たちとも会話をするようになった。理解を得るまでには時間が掛かったが、最初の一人と会話が成立した後は早かった。自ら筆談で説明するよりも早く噂が広まり、今まで会話のチャンスを逸していた少女達がワーッと寄って来たからだった。元々ラティーシャはポエムカードを書くなど、話術そのものには長けていたので、一躍人気者となった。
 難点は一気に複数の人と対話が出来ない事で、例えば両手に一人ずつ触れられても、どちらか片方にしか思考が流れないのだ。が、代表者がラティーシャからの思考を読み上げるというアイディアが出てからはその問題も解消し、今や普通に言葉を喋れる者と同じように過ごす事が出来るようになり、ハンディは既にハンディではなくなっていた。
「すっかり人気者だね、ラティーシャ」
『……はい、夢のようです。ただ……』
「ただ……?」
『彼女の視線が痛いのは、相変わらずです』
 敢えてラティーシャはそちらを見なかったが、メイヤーにはその『彼女』というのが誰を指すか、すぐに理解できた。
「うん。彼女達は、君の件以外にも色々と問題を起こしていてね。メイス様共々、僕も頭を痛めているんだよ」
『そうでしたか……』
 やはり、あの一件以外にも問題を起こしていたのか……と、ラティーシャはキュッと唇を噛みしめた。
「あれから、彼女たちは大人しくしているようだが。問題は無いかな?」
『ええ、今のところは何も』
 あくまで、今のところは……としか言いようが無かったが、あれ以来、まだトラブルが起こっていないのもまた事実。本当に気味が悪いほど、あの二人は息を潜め、沈黙を守っていた。
「何事も無い事を祈るよ」
『大丈夫です、私にはコレがありますから』
 そう言って、ラティーシャはメイヤーにプレゼントされた警笛を見せ、ニッコリと笑った。
「……君は、本当に良く笑うようになった」
『泣き顔も見せてはいませんでしたよ?』
「そうそう、その調子だ。じゃあ僕は自分の部屋に居るから、何かあったら呼ぶようにね」
『はい』
 メイヤーが立ち去った後、ラティーシャはチラリと例の二人の方を見やる。すると向こうもこちらをチラリと見て、ヒソヒソと二言三言話し合ったかと思うと、すぐにプイと背を向け、立ち去ってしまった。
(大丈夫、大丈夫……もう、あの時の私じゃないんだから)
 ラティーシャは、警笛をギュッと握り締め、自分に言い聞かせるように心の中で呟いた。

********

「居た!?」
「いや、こっちには居なかったよ!」
「じゃあ、あっちかな……私見てくる、あなた達はあっちを!」
「OK!」
 今日は、何やらメイド達の様子がおかしい。ある者は網を持って、ある者は籠を持って、慌しく走り回っていた。
(一体、何があったんだろう……?)
 ラティーシャは先程まで、メイヤーのお供で外出していたので、今起こっているこの騒ぎの正体を知らなかった。ふと、目の前を一人の少女が横切ろうとしたので、スッとその手を掴んで、念じてみた。
『アリス。これは一体、何の騒ぎ?』
「猫……」
『え?』
「猫が迷い込んだんだって、アリサが言っていた……私も探しているところなの」
 猫……ネコ!? まさか、あの時の? 
 ラティーシャには心当たりがあった。数ヶ月前にこの屋敷の中で巡り会った、あの子かもしれない……
『ねえアリス、見つけたら教えてね』
「うん、わかった」
 その一言を交わし、ラティーシャはアリスと別れた。そして自らもネコ探しに加わり、いち早く見付ける事が出来たら、また説得して外に逃げてもらおう……そう考えていた。
(もしあの子だったら、今度はきつく叱ってやらなきゃ……)
 他の者に見付かったら、お説教では済まないかも知れない……そんな気がしてならなかった。ラティーシャは昔から、この手の動物的な勘が特に鋭く、そうした予感は殆ど外れた事が無いのだ。生まれつき言葉を授からなかった代わりに、そういう部分に恵まれていたのかも知れない。ともあれ、そうした根拠の元、彼女は何としても自分が一番に猫を見つけなければならない、と躍起になった。
(……とは言っても、このお屋敷、広いからなぁ)
 キョロキョロと周りを見回しながら探し回ること数十分、未だに誰もターゲットに巡り会った様子は無い。
(あの子はすばしっこいから、案外、こんなところに……?)
 と考え、ラティーシャはエントランスの中央付近にある巨大なオブジェの台座によじ登った。だが運悪く、彼女は、上半身を腕の力で支え、更に両足を台座のくぼみに掛けて下肢を大きく開いた、傍から見れば確実に『はしたない』と言われるであろう格好になっていたところを、よりによってメイヤーに見付けられてしまっていた。しかも真後ろから。
「ん? 誰かと思ったら……ラティーシャじゃないか」
「……!!」
 声にならない叫び――いや、元々彼女は声が出ないのだが――を上げ、ラティーシャは慌てて事態の収拾を試みた。しかし、上半身の半分以上をオブジェの下に潜り込ませて居たために、なかなか脱出できず。恐らく数秒間は、その可愛い尻をメイヤーに見られていただろうか。やっとの事で元の床に降り立った彼女は、頬を紅潮させながら、おずおずとメイヤーの手を握った。
「何があったんだ? しとやかな君が、はしたない格好になって」
『そ、それが、その……ネコが迷い込んだと聞いたので、探す手伝いをしていて、その……』
「夢中になって、つい我を忘れたか。君でもそんな事をするんだな」
 必死に尻を振りながら後退してくる様を思い出し、彼にしては珍しいほどに笑いながら、メイヤーは柔らかくラティーシャの行為を咎めた。
「しかし君はレディーだ、あのような格好は感心できないぞ?」
『うう、申し訳ありません……もうしませんから、早くあの格好のことは忘れてください』
「ん? 忘れろと? いやぁ、滅多に見られないシーンだからな。忘れてしまうには惜しいな」
『そんな……意地悪を仰らないでください!』
 ラティーシャはすっかり涙目になり、縋るようにメイヤーに泣きついた。よほど恥ずかしかったらしい。
「ハハハ……冗談だ、安心しなさい。それにしても、ネコ?」
『ええ。私もアリスから話を聞いて、探すのを手伝い始めたんです。外から帰ってすぐの事だったのですが……』
「そうか。私は今までずっとメイス様のお部屋にいたので、騒ぎに気付かなかった」
 恐らくメイド達は、屋敷の総括を任せられているメイヤーに知られる前に猫を見つけ出そうと、必死になっていたに違いない。だが、そんな彼女達の努力も虚しく、アッサリとラティーシャによってその秘密は漏らされてしまった。尤も、猫の一匹や二匹が迷い込んだと知ったところで、彼が逆上するような事はあり得ないのだが。それが証拠に彼は『よし、それならば僕も一緒に探そう』などと言い出し、ラティーシャと一緒に屋敷の中をうろつき出してしまっていたのだから。
 エントランスで合流した彼らが、階段付近に差し掛かったとき、さらに共同で猫を探しているメイド二人組と合流し、4人で2階の廊下まで登ってキョロキョロと周りを見渡していると……遥か前方から、小さな四足の動物が駆け寄ってくるのが見えた。
『……!! あの子は!!』
「……知り合いかな?」
『あ、う……そ、それは……』
 まさか『そうです』とは言えず、口篭っていたが……ラティーシャにとっては、確実に覚えのある姿だった。
「にゃあ! にゃああ!」
『……!? 何をそんなに怯えて……?』
 と、不思議がっている彼女の胸元へ、その子は飛び込んできた。まるで迷子の子供が母親を見つけた時のように。
「にゃあ!!」
『ちょ……一体何……え!?』
「……?」
 左手でメイヤーの右手を握り、右手で胸元に猫を抱いた格好のまま、ラティーシャは固まってしまった。彼女の頭に……いや、意識に、と言った方が正解だろう。駆け込んできた猫の見てきたビジョンが、一気に流れ込んで来たのだった。
『…………!!』
「どうした、ラティーシャ! 返事をしなさい!」
『あ……あ……!!』
「ラティーシャ!?」
 あまりのショックに、ラティーシャは涙を流し、その場で膝を折ってへたり込んでしまった。が、彼女はすぐにカッと目を見開いて、いま自分が見たビジョンをそのままメイヤーに報告していた。
『奥から二番目、左側の部屋……アリスがテルシェと、取っ組み合いを……リディアの手に、大きな鋏が……!!』
「何!?」
 それだけを報告すると、ラティーシャはショックに耐え切れなくなったか。再びへたり込んで、そのまま意識を失っていた。

********

 その後のことは、彼女は良く覚えていなかった。気が付くと医務室のベッドに横になっており、隣ではアリスが血だらけになった脚を、医師に手当てしてもらっている最中だった。
「君の言った通り、テルシェとリディアだったよ。大きな鋏で、アリスの脚を刺していた。捕らえようとしたところで、窓から飛び降りて逃げてしまったが……しかし、あと一歩遅れていたら、彼女は危なかっただろう」
『私が見たのは、自分を弄んでニヤニヤしているテルシェたちと、そんな自分を庇おうと彼女達に立ち向かって行ったアリスの姿でした。掴み合いになった後、テルシェの手から逃れ、一目散に逃げ出し……そして私たちの姿を見つけて、そこに駆け寄っていく。そんな様子でした』
 何故か数秒の間、猫の目線になっていた自分の意識を不思議に思いながら、ラティーシャは回想した。意識を失った後の記憶がスッポリと抜けて、気が付いたら手当てを受けてここに寝かされていた、という事実を付け加えて。
「猫の見た映像を、そのまま見た……という事かな?」
『だと思います。そうでなければ、私が私自身の胸に飛び込んでいくビジョンなど、見ようがありませんし……』
 その回答を聞いて、メイヤーは暫く考え込んでいた。が、低く短い唸りのような声を上げた彼は、無言のまま医務室を退出していった。
「メイヤー……?」
 裁ち鋏を突き立てられた脚の傷を縫合してもらっている最中のアリスが、朦朧とした意識の中で彼の姿を追った。ラティーシャも同様に彼の姿を目で追っていたが、その時の彼女の思考を読み取った者は存在しなかった。その瞬間、彼女に触れていた人物が、一人も居なかったからである。

********

「メイス様。『少女館』の顧客は、代価を払える者であれば誰でも構わない……というのが大前提でしたね?」
「どうしたメイヤー、今更そんな事をおさらいしてどうする?」
 その回答を聞いて、メイヤーはニヤリと笑みを浮かべた。
「ラティーシャ・クリフォードなる少女を、このメイヤーが顧客として購入いたします」
 大きなざわめきが館内を覆いつくす。そして主であるメイスは、意外すぎる展開に思考が追随しきれず、一瞬ではあったが、その意思が肉体の制御を放棄したほどだ。しかし、流石は名門クリフォード家の主。程なくして彼は自我を取り戻し、メイヤーを正面に置き、会話を再開させた。
「……目的は?」
「助手として働いてもらう為です。そのためには、当館の商品という看板を背負ったままでは都合が悪いので」
「本気かね?」
「至って本気です、メイス様」
 その会話が為されている間、商談の対象となっていたラティーシャは、やはり事態を飲み込めず、呆然としていた。が、彼女はやがて、立場も、自分の今置かれている状況もすっかり忘れて、メイスの目前で会話を続けているメイヤーに駆け寄り、その手をギュッと握り締めて念じた。
『め、め、め、メイヤー! 聞いてませんよ、何なんですかこの展開は!?』
「おや、私の助手では不満かな? 給料は言い値で出すぞ」
『そういう事ではありません!』
「では、どういう事なのかな?」
 分かっていて言っているのか、それとも気付いていないのか……ここで貴方に買い取られるという事は……それはつまり……
『一生……貴方の傍にいるって事になるんですけど、分かってます?』
「……? 無論そのつもりだ、何か問題があるのかな?」
『でっ、ですから……』
 ここでメイヤーは、漸くラティーシャの頬に朱が差している様子に気付いた。しかし、その回答は彼女の質問に対する答えになってはいなかった。
「安心しなさい。君がお嫁さんに行きたくなったなら、それは邪魔しない。私の助手として、ずっと仕えてくれればいいんだ」
『ですからぁ〜……』
「……分からないな、ちゃんと説明してみなさい」
『……もういいです』
 この先、第二のテルシェになりうる子が出現しなければいいけど……という不安に駆られながらも、ラティーシャはこの急展開を受け止める事にした。しかし、どうして急に? と考えているところで、同じ疑問をメイスが代弁してくれた。
「メイヤー。何故、彼女を助手として傍に置く気になった? 理由を述べよ」
「はい。彼女がテレパシー、それにサイコメトリーという、二つの特殊能力を同時に備える超能力者であると判明したからです。加えて、彼女は物事を簡潔に纏めて文章にする力に長けており、商談の際にも力を発揮すると思えるのです」
『サイコメトリー?』
「サイコメトリーとは?」
 二人から同時に同じ質問をされ、これは説明が必要だと判断したメイヤーは、まずメイスに対する質問に答える形で解説を開始した。
「サイコメトリーとは、無機物や、第三者の視界の投影半径の範囲で展開された事実を読み取って、再現できる能力の事です」
 そして次にメイヤーは、ラティーシャの方に視線を向け、今度は彼女に対して説明する形で補足を行った。
「君はあの日、猫の視界を見事に再現し、人命救助に貢献した。私はそこを評価したのだ」
『そんな力が、私に……?』
 ラティーシャは目を丸くして、自身の能力に疑問を抱いた。そしてメイスも、そんな能力があるのか……? と、これまた目を丸くしていた。
「ま、自覚するまでに時間が掛かっても良い。君の力量は、当の昔に認めている」
『私の、力量……!?』
「ハハハ……本当に君は奥ゆかしいな。ま、そこも長所の一つだが」
『……?』
 ラティーシャに手を触れていないため、メイスにはラティーシャの台詞は読み取れないので、彼女がどのような返答をしているのかまでは分からなかったが、どうやらメイヤーの要求を了承しているらしい事は見て取れたようだ。
「よろしい、この商談を正式に認めよう。ラティーシャ、君は只今を以って、メイヤーに買い取られた。以後は彼に従いなさい」
「ありがとうございます、メイス様。支払いは後ほど、お部屋に訪問させていただいた時に行います」
「うむ、それまでに書類も用意しておこう……最後に質問するが、メイヤー。君は何故、このような重大な話を、ここで始めたのかね?」
 尤もな疑問であった。本来であれば、このような商談は人払いをした上で行うのが定石だ。が、メイヤーは人目を気にせず、堂々とホールの中で口に出した。誰もが不思議に感じるであろう……しかし、彼は淡々とその理由について回答した。
「ラティーシャの働く場所には、この屋敷の中も含まれます。彼女が私の指示の元で働く事は、いずれ周知の事実となります。単に、人事報告の手間を省いただけの事です」
「なるほど、君らしい」
 短く返事をすると、メイスはスッと立ち上がり、数名の従者と共に自室へと去っていった。
「さあラティーシャ、今日から早速働いてもらうよ。仕事の説明をするから、付いて来なさい」
『はい……』
 急な展開にやっと思考が追いつき、漸く状況を飲み込んだラティーシャは、それでも未だに信じられない……といった表情で、どよめきのおさまらない少女たちの合間を縫うようにして、メイヤーを追った。突き刺さる視線が痛い。テルシェではないが、メイヤーに対して彼女同様の感情を抱いている者は、一人や二人ではないようだ。それに対する防衛策も、考えなくてはならないな……と、彼女の心中は複雑だった。だが不思議とそれは、嫌な気分ではなかった。
(優越感……? 何で私が、そんな物を感じているの? 私は別に……)
 彼女は、自分の中に芽生えつつある感情を、自分で否定していた。確かに彼は恩人には違いないが、特別な感情を抱くような対象ではない……そうであってはいけない、そう自分に言い聞かせて。なにしろ、自分は今、彼の助手として、所有物として買い取られたのだ。対等な立場ですらない、主君と従者の関係なのだ……これはビジネスなのだ、と。
(しかし、一生ついていくという事は……つまり……あぁもうっ! 一生我慢していろとでも、言うつもりなんですか!?)
 少女はその頬を桜色に染めながら、やや前方を颯爽と歩く彼の横顔を、そっと盗み見ていた。いつまでも、いつまでも……

<了>




『夢の軌跡』の外伝その2です。
今回もまた、本編のあらすじを知らないと意味の分からない部分が一箇所含まれていますが、そこはまぁ有料作品からのスピンオフだからと言う事で(笑

今回登場の『ラティーシャ』は、本編に於いてはたった一度、名前が羅列されただけという、本当に注意して誌面に目を通さなければ
記憶にも残らないような扱いだった少女を取り上げ、綾丸が人格を形成して送り出したものです。

そのポジションから、今後は頻繁に登場する事になると思います。
(2011年12月26日)


Back