創作同人サークル『Fal-staff』

『歪む世界』

 ザクッ、ザクッ……
 小さく音を立てながら、路面の整備もされていない裏路地を、二人の少女が肩を並べて歩いていた。
「結局、飛び出してきちゃったね」
「そうだね。でも、いつかこうなるのは分かってたし」
 ショートヘアの少女が発した呟きに対し、セミロングにした髪をサッと掻き上げながら、もう一人の少女が短く答えた。髪形が違う事を除けば全く同じ容姿を持ったこの二人は……そう、言わずと知れた双子である。
「とりあえず、寝泊りするところを探さなきゃだね」
「野宿はあまり好きじゃないな。雨風は仕方ないけど、人目に晒されるのは嫌い」
 と、言葉少なくやり取りをしている間に、いつの間にか裏路地を通り抜け、人通りの多い表通りへと出てしまっていた。二人は今、ある事情で上級の暮らしを約束された館から逃げ出してきたばかりなので、着衣は上等なものであったし、その身体には一点の汚れも付いてはいない。だから、こうして並んで表通りを歩いていても、なんら目立つ事もなく、普通に通り抜ける事が出来た。逆に、先程まで歩いていた裏路地の方が、今の彼女達には不似合いであっただろう。
「……お金、持ってる?」
「分かりきった事、聞かないで。あの屋敷の中では、そんなもの必要なかったんだから」
 そう、二人は何不自由の無い生活の全てを自ら放棄して、逃げ出してきたのだ。だから、手持ちのお金は銀貨一枚すら持っていない、無一文の状態だったのである。屋根のあるところに寝泊りをするどころか、今夜食べる一切れのパンですら手に入れることは出来ない。幸いにして、まだ空腹状態ではなかったので、二人は落ち着いていられた。しかしそれも時間の問題。いつかお腹はすくし、それよりも日が暮れて、疲労と共に眠気も襲ってくるだろう。そうなると、彼女達が単身で身を守るのは難しい。何とかして、二人は早急にこの状態を打破しなくてはならなかった。
「……聞いた事があるよ、中にはお金を出してでも、女の身体を欲しがる男が居るって。ぼく、それでお金稼ごうか?」
「テルシェ、それはやめておきなよ。妊娠でもさせられたら洒落にならないんだから」
 突拍子も無い事を言い出すテルシェを、リディアが諫めた。確かに金は稼げるが、取り返しのつかない事になるぞと。
 過去に自ら体験した幼少期の悲惨な記憶によって、かなり狡猾な内面を持つようになった姉妹であったが、テルシェに比してリディアの方が、やや理性のある性格を有していた。反してテルシェの方は些か慎重さに欠け、とりわけ性的行為に対する危険度を軽視する節があった。だからこそ、先のような台詞すら軽々しく漏らす事が出来るのだ。
「じゃ、どうする? ぼく、乞食や残飯漁りは嫌だよ? アレはみっともないもん」
「うーん……」
 リディアは頭を抱えた。差し当たって、この身を休める事の出来る場所と、食料を確保しなくてはいけないな……と。それも、なるべく目立たない所に落ち着きたいと彼女は考えていた。以前、人目に触れやすい場所で過ごしていた時に、人身売買を生業とする男達に目を付けられ、有無を言わせぬままに拘束されて、荷物のように抱えられて連れ去られたという、屈辱的な経験があるからだ。
 しかし運良く彼女たちはその後、何不自由の無い贅沢な暮らしを約束され、且つレディとして相応しい教育を施してくれる上に、将来の生活まで約束してくれる館……『少女館』の商品として買い取られ、大事に扱われてきたのだ。尤も、その経験が彼女達を増長させ、その狡猾さに更なる磨きを掛ける原因となったのだが。
「わざとボロ着に着替えて、裏通りをウロウロしてみる? また、人売りが捕まえてくれるかもよ」
「アレも、とりあえず生きてはいけるから悪くは無いけど……」
 テルシェにとっては『攫われた』際の経験はそれほど屈辱ではなかったのか、またも安易な発想をストレートに口に出した。が、リディアはそれに対し、明らかに難色を示した。確かに生存は可能だが、そのかわり自由がない。それが嫌だったのだ。それに前回はたまたま運良く『少女館』に買い取られたから良かったが、次もまた良識人に買い取られるとは限らない。だから、安易に人売りに連れ去られるのはなるべく避けたい……と考えていた。
「……とりあえず、街を出よう。他人の施しを受けるのが嫌なら、無一文の今、私たちには不似合いな場所だよ……ここは」
「そうだね、リディア……あ、ねえ! そういえば、あの屋敷、どうなったかなぁ?」
「え? あぁ……景気良く燃えてたからねぇ。今頃は廃墟になってるか、誰かが買い取っているか……」
 彼女達の言う『屋敷』とは、二人が生まれ育った、某名家の屋敷の事だ。もう一年ほど前の事になるが、彼女たちは自分達の両親を亡き者にするため、その屋敷に火を放ち、そこに住み込む使用人共々に、分け隔てなく焼き殺した経験があるのだった。つまり、生活のすべてを捨てて逃げ出したのは、これで二度目なのである。
「ねぇリディア、ちょっと様子を見に行かない?」
「そうだね……面白いかも。ここからそう遠くはないから、今から歩いても夕方には着くね。運がよければ、身を隠す部屋の一つぐらいは残っているかもしれないし、行ってみようか」
 何気なく口に出たテルシェの一言で、二人はとりあえず古巣……名門・クロムウェル家の屋敷跡まで足を運ぶ事にした。どうせ無一文、特に行くあても、ツテも無いのだ。ならば、その選択も悪くは無いだろう……と、リディアも了承し、二人は歩き出した。

********

「おー、一応、屋敷の形は残っているんだね。流石は金持ちの家、造りが違うわ」
「人手に渡った様子も無いね……ただ、あれから全く手も入っていないみたいだね。荒れ放題だよ」
 屋敷跡に辿り着いた二人は、正面入り口からその全景を見回して、互いに感想を述べた。焼け跡は誰かが侵入し、内部を散策したような形跡はあったが、それ以外に人の手が入った様子は無かった。無駄に敷地が広かった所為か、周囲に飛び火した様子も無いようで、焼け落ちたその屋敷跡だけが無残な雰囲気を放つ、異空間のようにも見えた。
 火を放ったのは誰もが寝静まった深夜の事。しかも一階部分から発火させたため、逃げ延びた者は数少ないだろう。もし生存者が居たとしても、主無きこの廃墟に戻ってくる理由など無いと思われる。それから約一年余り放置されたこの屋敷跡が、このように荒廃するのも当然の事……と、二人は思っていた。
「クロムウェルの残党って、まだいるのかな?」
「わかんない。ただ、あの火事でアルバートの奴も死んだだろうし、誰かが復興に手を貸しているとも思えない。だとしたら、一年以上経った今でも、この屋敷がこんな無残な姿を晒しているわけが無いもの」
 思い思いに意見を述べながら、二人は母屋の跡に向かって歩き出した。どうやら、可燃部分だけが消失し、石造りの建物の本体は崩れ去る事はなく、残存したようだ。嘗ての栄華は跡形も無く崩れ去り、無残な骸を晒す廃墟は、誰にも相手をされる事なく、そこにひっそりと佇んでいたかに見えた。が、その時……
「誰!?」
 物陰から、二人に対して鋭い声が掛けられた。面倒くさそうに、ゆっくりと声のした方に目線を向けると、そこには何と……彼女達の実母であり、この家のメイドの一人であったナディアが立っていた。彼女が身に着けていたのは嘗てのメイド服ではなく、何処かの店の制服であろうか……見覚えの無い衣服であった。それを纏っているおかげで一応身なりは整っていたが、その顔には疲労と憔悴の跡が見え、お世辞にも健康とは言いがたく、弱々しい姿を晒していた。
「あ……あ!? リディア……テルシェ!! あなた達……生きていたのね!?」
 その姿を確認すると、ナディアは涙を流しながら二人の方に駆け寄ってきた。が……次の瞬間、その喜びは見事に粉砕された。
「ふぅん……生きてたんだ。しぶといんだね」
「私たち、アンタを焼き殺すつもりだったのに」
「え……!?」
 その発言と態度に驚愕したナディアは、その場で固まり、友好的に二人に近寄った事を即座に後悔した。
 ナディアは、愛する元当主……内縁の夫であるアルバートの死を悼み、敢えてその地を離れようとせず、見付からない亡骸の事は諦め、形だけの墓標を立てて奉り、その近くにバラックを建てて、そこで寝泊りをしながら、小さなパン屋の店員として細々と暮らしていた。
「ふぅん……ぼく達の住処としてはかなり狭いけど、雨風は凌げるし……この女、ちょっとは稼いでるみたいだよ?」
「そうみたいだねぇ……せっかくだから、暫くお世話になろうか?」
「なっ……一人でも大変な暮らしなのよ!? 一緒に暮らすなら、あなた達も働いて……」
「我が名は、アルバート・クロムウェルの実子、リディア・クロムウェル! 正当なるクロムウェル家の後継者候補だ!! 所詮、ただの使用人に過ぎなかったアンタより、私たちは遥かに格上なんだよ!!」
「……!!」
 そう、元当主の実子であり、本来であれば当家の後継者候補としての継承権を持っていたはずの彼女達は、その出生の理由から権利を封印されていたとは言え、系譜上で言えば直系の子孫である事に間違いはない。リディアはその権利を高々と誇示し、ナディアの前に立ち塞がった。
「……さて、まずは……お腹がすいたねぇ、テルシェ?」
「そうだね……早速だけど、夕食を作ってもらおうかな」
 目の前に立つ女性は、間違いなく自分達の実母である。が、そんな事実はお構い無し……と言った感じで、二人はナディアを召使い感覚で酷使し始めた。最初のうちは抗議をしていたナディアであったが、二人の態度は変わらなかった。そして屋敷に火を放ったのが実は二人の仕業だったのだと知ると、恐ろしくなって抵抗する意思も徐々に失せていき、その後、彼女は二人の言いなりとなって、馬車馬のような労働を強要されたのであった。

********

「ナディアさん、どうしたの? 最近、顔色良くないね?」
「えっ? え、えぇ……ちょっと疲れ気味なのかしら」
「無理しちゃダメだよ? 今日はお客も少ないし、どうだい、早めに帰って休んだら?」
 双子がナディアの元に着いてから、一ヶ月あまりが経過していた。パン屋の店主であるチェスターは彼女の不調に気付いて、自宅で休息を摂る事を勧めた。しかし彼女は逆に顔を青くし、ぶんぶんと首を横に振って、その申し出を丁重に断っていた。
「……大丈夫、少しだけ休憩を頂けば、回復できますから」
「しかしねぇ……」
 首を傾げながら、頑として早退しようとしないナディアを眺め見るチェスターは『あんなに真面目に働いて……』と感心していたようだが、実は彼女が帰宅を拒むのには理由があった。そう、家に帰れば、あの悪魔のような双子が待っている……そう思うと、帰りたくない、少しでも長くお店に居たい……そう考えてしまうのだった。
 彼女が少しずつ蓄えていたお金は、双子に見付かって遣われてしまう事の無いよう、常に肌身離さず持ち歩いていた。財布を小屋の中の隠し場所から、双子に見付からずに持ち出せた……それだけが彼女にとっての救いであった。
(あの家には、アルバート様の魂が眠っている……しかし、あそこに戻れば、あの二人が……あぁ、どうしたら……)
 ナディアはあの双子と再会して以来、小屋を放棄して、蓄えたお金をはたいてアパートを借り、そこに移住しようかと何度も考えた。だが今まで、可能でありながらそうしなかった理由を振り返ると、なかなか実行に移せないでいたのだ。そして今日もまた、その自問自答を繰り返し、心の中で二人の自分が戦っているのを感じていた。
 帰らなければ後が怖い、しかし帰りたくは無い……だが、あの場所には、愛するアルバートが眠っている……その葛藤は、ただでさえ疲れ気味であった彼女を益々疲れさせ、誰が見ても『調子が良さそうだ』とは言えないであろう、そんな雰囲気を醸し出していた。
「……さん? ナディアさん!?」
「……!! はっ、はい!?」
「大丈夫かい、半分気絶してるような顔だったよ?」
「す、すみません……少し、考え事を……」
 ナディアが明らかに尋常ではない悩みを抱えている事を見破ったチェスターは、思い切って彼女に問い質した。
「ナディアさん、困った事があるのなら、話を聞くよ?」
「……!!」
 チェスターの申し出に、ナディアの心は思わずグラリと揺れた。そうだ、あの子達は屋敷に火を放ち、多くの命を奪った罪人……その気になれば、警察に突き出してしまう事も出来る。一人では勇気が出ないが、彼が居れば……そう考えたのだった。しかし彼女はアルバートに対する想いから、その選択をグッと堪えた。その代わり……
「……何でもないんです、何でも……ただ、一つだけ甘える事が出来るのなら……」
「お? 何だい、遠慮なく言ってごらん?」
「……お願いです、一晩……一晩だけでいいです。マスターのお家の玄関先で構いませんから……そこで寝かせてくださいませんか?」
「……!?」
 真剣な眼差しで訴えてくるナディアを、チェスターは目を白黒させながら何度も見詰め直した。
「ナディアさん、そうするのは一向に構わない。玄関だなんて言わず、なんならベッドに寝てくれても構わないんだよ? どうせ私は独り身。ベッドをナディアさんに譲って、自分はソファで寝ても構わないんだからね。しかし……」
 チェスターは40代になったばかりの、言うなればナイスミドルであった。容姿は決して悪くなく、むしろ美男子の部類に入る方だ。が、どういう訳か独身を貫いて……いや、本人の意思に反して、独身生活が続いてしまっていたのだ。そんな男の自宅に『泊めてくれ』と申し出る、これまた美人で、且つ独身のミドルエイジ。これは只事ではない。彼にとっては大事件である。彼は慌てた内心を必死に隠し、平静を装って言葉を続けた。
「……せめて、訳を聞かせてはくれないかな?」
「そ、それは……」
 全容を話せば、正義感の強いチェスターの事。即座に双子を警察に突き出し、ナディアに自由を取り戻してくれる事だろう。だが、あの双子は愛するアルバートとの間に出来た子供である事に違いは無い。それを考えると、つい、その結末が訪れる事を恐れてしまう。しかし、もはや黙っているわけにも行かず、ナディアは所々をぼかして彼に理由を打ち明け始めた。
「……昔、ある男性との間に子供が出来て……その頃私は、あるお屋敷のメイドとして、住み込みで働いていたんです。当時は、その子達とも仲良く暮らしていたんです。けれど、先の大火事で生き別れになって……」
「なっ……ナディアさん、子供が居たの!?」
 チェスターは、驚愕の色を隠せないまま呆然としていた。『屋敷』『火事』というキーワードは耳をスルーして、その言葉だけが頭に残ったようであった。だが、そんな彼の反応を無視して、ナディアは続けた。
「……その子達が……あ、子供は双子の女の子なんですが……最近になってふらりと、お屋敷の焼け跡に帰ってきて……そこで再会したんです。で、二人を養いながらの生活が始まったのですが、彼女たちはどこかで、贅沢を覚えてきたようで……」
「ははぁん。それで、我が儘を言ってナディアさんを困らせているんだね?」
「ええ……その我が儘ぶりに、私も少し……参ってしまって……ほんの一時でいいから、ゆっくりと眠りたくて、それで……」
 その返答を聞くや否や、パンと膝頭を叩き、チェスターは勢い良く立ち上がった。
「よぉし、そんな我が儘娘は、俺が性根を叩き直してやる!」
「ま、待って!! それが出来るなら、とっくに何とかしているんです……でも故あってそれが出来ないので、困っているのです……」
「だから、その『ワケ』ってのは、何なんだい?」
「…………」
 ここから先は、事の真相に触れてしまう可能性があったので、流石に言い淀んだナディアだったが……ここまで暴露したのだから、もはや全てを明かしても同じ事……と覚悟を決め、彼女達の出生の秘密をチェスターに話して聞かせる事にした。
「驚かずに……そして、他言無用でお願いします……私が嘗て愛した男性とは……彼女達の父親とは……」
「父親とは?」
「……アルバート・クロムウェル」
「……!? じゃあ、何かい!? ナディアさんは、あのお屋敷のご主人の愛人で、その……まだ、旦那さんの事を?」
 改めて驚愕に染まるチェスターの顔を見ながら、ナディアは小さく頷いた。そして、その意外な過去に驚きながらも、なるほど、道理で物乞いにしては品が良すぎると思った……と、チェスターは彼女と初めて会った日の事を回想していた。
「なぁるほど……隠し子とはいえ、旦那と血が繋がっている嬢ちゃん達の方が格上。だから、ナディアさんは言いなりに?」
「ええ……」
 この先を、根掘り葉掘り聞き出すのは野暮という物だろうと判断したチェスターは、既に亡きアルバートに未だに操を立てるナディアに対して諭したい気持ちを抑えつつ、暫し考え込んだ。が、その後、勢い良く立ち上がり、その懇願を快諾していた。
「分かった! もう、事情は詮索しない。俺の家でよかったら、幾らでも骨休めに使ってくれていいよ!」
「マスター……恩に着ます」
「気にしないで……も、もし良かったら、ずっと住み着いてくれたって、いいんだぜ?」
「そ、それは……流石に……」
 アルバートという内縁の夫に対し未だに操を立てる彼女も、やはりまだ『女性』としての本能は枯れてはいなかった。自らの相手としては適齢といえるチェスターを前にして、思わず頬を染めた。
「……今日はもう、客も来ないだろう……看板を下げて、店じまいにしようか?」
「そうですね……」
 僅かに売れ残ったパンをバスケットに収め、それを今夜の夕食にしようと話し合いながら、二人は店の戸締りをして、チェスターの自宅に向かった。ナディアとしては、アルバート以外の男性と夜を共にするのは初めてだったためか、些かの緊張を隠せなかった。尤も、それはチェスターとて同様だったのだが……
(アルバート様……ひと時の休息を、お許しください)
 彼女は、空の上のアルバートに向かって、密かに詫びの意味を込めて十字を切っていた。

********

「……遅いね?」
「いつもなら、そろそろ帰ってくる頃なのに……」
 焼け跡のバラックで、双子はナディアの帰りを待っていた。だが、待てど暮らせど、彼女は帰宅してこなかった。
「食料の調達に、手間取っているのかな?」
「違うね……逃げたんだよ、私達の扱いに疲れ果てて」
「だとしたら、許せないね」
「ああ、許せない……あの女は、私たちに仕えて、貢献する義務があるんだ。このまま逃がしはしないよ」
 二人の目が妖しく光った。そして、その晩は蓄えてあったパンとハムの残りを分けて食べて凌ぎ、ナディアに対する仕置きをどうするか……それについて相談を始めていた。

********

 同じ頃、その日の売れ残りのパンをはじめ、丹念に煮込んだポテトスープを食卓に並べ、ローストビーフをメインディッシュとして、ささやかながらではあったが、チェスターがナディアをもてなしていた。その食卓には、豪勢にもワインクーラーまでもが並び、寒々としたバラックで一年以上もひっそりと暮らしていたナディアの心に、久々に暖かな気持ちを蘇らせていた。
「さあ、暖かいうちにどうぞ。遠慮は要らない、お腹いっぱいになるまで食べていいんだよ。お代わりは幾らでもある」
「マスター……ありがとうございます」
「……その、マスターっての……ここではやめてくれないかな? その……チェスターと名前で呼んでくれると嬉しいんだが」
「……!! チェ、チェスターさん……って、何だか恥ずかしいですね?」
「慣れの問題さ、じきに気にならなくなるよ……さあ、まずはポートワインで乾杯をしよう!」
 その厚意に、思わず笑みを浮かべるナディアを見て、チェスターの理性の壁には、徐々に亀裂が入りつつあった。そう、もはや解説は不要であろう……彼は密かに、ナディアを『女性』として見ていたのである。
 食事が終わり、夜も更けると……酒に慣れているチェスターはまだ正気を保っていたが、ナディアはアルコールの力で意識が散漫になり、次第に自我を失いつつあった。悪魔のような双子と、地獄のような日々に別れを告げ、再び自分の幸せを掴みたい……そう考え始めていた彼女がベッドに誘われ、それを拒めなかったとしても、責める事は誰にも出来ないだろう。彼女はその晩、チェスターの逞しい腕に抱かれ……濃密に愛されたのであった。

********

「そろそろ、仕込みを始めようか」
「そうですね、チェスターさん」
 その会話は、数日前までは店の中で行われていた。が、いま二人がいるのは、チェスターの家の中。
 あの夜から既に10日あまりが経過し、その間ナディアは一度もバラックへは帰っていない。そう、彼女は漸く、アルバートへの想いを断ち切る決心を固め、チェスターとの同棲生活を始めていたのであった。
 彼女の心変わりについて、チェスターが特にこれと言った進言をしたり、過剰な誘惑を繰り返したりした訳ではない。そしてナディアとしても、彼の厚意に甘え、楽な道を選んだ訳ではない。しかし、彼女は一年以上も亡き者の影を追いながら、独りで苦境に耐えてきたのである。そこへ悪魔のような双子との再会、更にチェスターからの暖かい厚意が重なったとあっては……この選択は至極当然と言えるであろう。
「……『さん』は、いつになったら取って貰えるのかな?」
「意地悪を言わないでください……そういう事を言っていると、また『マスター』に戻っちゃいますよ?」
「うっ……!」
「クスッ……冗談ですわ」
 そう言うと、彼女は彼の頬に軽くキスをして、サッと身を翻した。その頬は桜色に染まっていた。その会話と行動は、とてもではないがミドルエイジに達した男女のそれとは思えないほど甘酸っぱく、くすぐったい物であったが。この二人の経歴に……特に恋愛経験にスポットを当てて考慮すれば、無理からぬ事。恋に年齢は関係ないのである。
「戸締りは宜しいですか?」
「あぁ、大丈夫。さ、行こうか」
 仲良く肩を並べて、歩いて十数分の距離にある店舗までの道のりを、二人はウキウキとしながら歩いた。ナディアの顔色は、チェスターに事を打ち明ける前の、疲れ果てた土色のそれとは打って変わって、実にいきいきとしたピンク色に変わっていた。
 パン屋の朝は早い。粉の配合から焼成に至るまで、実に数時間という長い時間を必要とするため、まだ日も昇らないうちから働き始める。そうでなければ、店に商品を並べて客に供するのが、かなり遅れてしまうからだ。その日もまだ頭上には星が瞬き、東の空がようやく白んできたという頃合いであった。が、二人の表情は実に楽しそうであった。
(ほおぉ……あのご婦人、随分と変わったもんだねぇ。まるで別人のようじゃないか……横の旦那の方も、前に比べて気運そのものが上がって、実に絶好調……って感じだな。いや、恋の力ってのは偉大だねぇ、全く)
 そんな二人を、そっと見守る人影があった。が、幸せいっぱいの彼らがその視線に気付く訳もなく、何事もなしにその人影の前を通過していった。
(覗きとは感心できないねぇ、やらしいったらない)
(……お前にだけは言われたくないぞ)
 短く、それでいて鋭いやり取りを済ませると、その人影はサッと姿を消した。その姿を見たものは居らず、会話を聞き取ったものも居ない。しかし『彼ら』は、確かにそこで二人の姿を見ていたのだ。誰にも知られる事無く……

********

 その頃、備蓄の食糧も底をつき、空腹から苛立ちもピークに達した双子は、本気でナディアの行方を追い掛ける手立てを考え始めていた。
「あの女、働いている場所については頑なに口を割らなかったね」
「でも、ここから歩いて通える距離だよ。たかが知れてるよ」
 二人はまず、ナディアの姿を見つける事から始め、その後にジックリと仕置きを施すつもりであった。だが、貴重な労働力が消えてしまうのも、まずい。死なない程度にいたぶって、また働いてもらわなければ自分達が困る事になる。その辺を考慮する余裕は、まだ辛うじて残されていた。二人はまず、徒歩で通勤可能な範囲に的を絞り、二手に分かれてしらみ潰しに捜索する事にした。
「テルシェ、貴女は街の北側をお願い。私は南側から探すわ」
「ラジャ。もし見つけたら、ねぐらまで追跡してOK?」
「OKよ。ただし、単独では手を出さない事。何か隠し玉があったら、ダメージ食うのはこっちだからね。いい?」
「当然!」
 二人の悪辣な行動は更にエスカレートし、せっかく幸せを取り戻そうとしているナディアに対して、再び暗雲を立ち込めさせる原因を孕んだ作戦は、今まさに実行に移されようとしていた。

********

(……ぼくたちから逃げようだなんて、甘いんだよ)
 こちらは、北側に向かって捜索を始めたテルシェ。彼女はリディアよりも短絡思考であり、思った事をすぐに実行に移してしまう、いわゆる『手の早い』タイプであったため、こちらに見付かればナディアはまず物理的な報復を受け、その後で更に吊るし上げを喰らう事になるだろう。
 彼女たちは街に出るときの事を考え、少女館を出る時に身に付けていた衣服は汚さぬよう、大事に保管しており、今日はそれを着けて外出していた。入浴が侭ならないため、ややボサボサになりつつあった髪は大判のハンカチで覆い隠していたのだが、それが変装の役を果たし、遠目には彼女だと気付かれにくい格好になっていた。
(こんな狭い街、すぐに調べ尽くせるよ。それに、あいつが着ていた服は良く覚えてる。あれはどう見ても、食べ物屋の服だ……)
 清潔感を演出する白いエプロンに、頭には三角巾。その姿は看護婦にも通じるものがあったが、ナディアは医療関係の経験は持っていないはず。ならば飲食店関係か食料販売店のどちらかだ……と目星をつけ、テルシェはそれらしき店をシラミ潰しに見てまわった。
(あらー? あの子達……とうとう痺れを切らしたか)
 先程、店に向かう途中のナディアたちを覗き見ていた二人のうちの片方が『上空から』テルシェの姿を発見していたが、いま眼下にいる彼女の捜索担当範囲は的外れであったため、まず成果は上げられないだろうと予測し、そちらは無視した。むしろ、まずいのはもう片方……と、その目線を街の反対側に向け、その影は双子の片割れ……リディアを探して飛び去った。

********

(見付けても、まずは焦らずに尾行してやる……こんな行動に出るからには、絶対に協力者が居るはず。そいつもろとも……)
 一方のリディアは、偶然ではあったが、既にパン屋の付近にまで到達していた。その洞察力は鋭く、チェスターの存在も予測して、彼をも報復の対象として見ていた。自分達の労働力を横取りするなら、そいつは敵……こういう図式である。テルシェよりはまだ理性的な彼女ではあったが、やはり双子。行き着く結果にはそんなに大きな違いは無かったのである。むしろチェスターをも巻き込もうと考え至ったリディアの方が、テルシェよりも悪質であると言えた。
「あー、そこの嬢ちゃん! ……そう、君だよ、君! 他に誰が居るんだい!」
 唐突に男の声に呼び止められ、リディアは一瞬思考を停止させた。その男は露店商人であろうか、目の前に敷いた敷物の上に何やら色々と物を並べ、道行く人に声を掛けてはそれらを勧めているらしかった。
「……急いでいるので」
「まぁまぁ、そう言わないでさ。慌てる乞食は貰いが少ないって言葉、知らない?」
 その男の勢いに、リディアは困惑の色を示した表情になった。普段は無表情を崩さず、常に冷徹なイメージを保持していた彼女のこの反応は極めて珍しかった。
 素通りしても良かったのだが、リディアは何故かその足を止め、吸い寄せられるようにその男の前に近寄った。並べられた品々に目を落とすと、どれも個性的で、一見すると商品には見えない物すら並んでいた。
「……何屋さんなのですか?」
「何でも屋さ、ここに並べてあるのは商品のほんの一部。まだまだ色々あるんだよ、見てみるかい?」
「いえ……」
 『結構です』と言い掛けたが、目の前の男は既に怪しげな瓶やら袋やらを取り出し、嬉々としていた。そんな彼を見て、リディアは益々困惑した。彼女は先を急いでいたし、何より、お金を持っていない。勧められても買い物は出来ないのだ。
「あの、私……申し訳ないんですけど、お金が……」
「あぁ、いいんだよ。俺が商品の代価として貰うのは、お金だけじゃないんだ」
「え?」
「そう……価値のあるものは、何もお金だけじゃない。その人が大事に思っているものと交換で、品を渡す事の方が多いのさ。そしてそれは、物理的なものだけではない……そう、ハートよ、ハート!」
「……?」
 リディアの表情に、段々と焦りの色が見え隠れし始めた。この人、何を言ってるんだか分からない……第一、本当に商人? お金は取らず、気持ちだけで商売が成り立つ? そんな訳ないじゃない……と、彼女の持つ常識の遥か斜め上を行く彼の言動は、懐疑心を通り越した、恐怖にも似た感情を芽生えさせるのには充分であった。
「すっ、すみません、失礼します……!」
 彼の言動を理解できず、徐々に怯え始めたリディアは、遂に踵を返して男の店から離れていった。そしてその様を、彼は悠然とした表情で見送っていた。
「あーっ、ちょっと! なに逃がしてんのよ、居待!」
「……カエデか? 俺はもう『居待』じゃねぇ、リチャアムだ」
「そんな事、どうでもいい! あの方向は……」
「大丈夫だよ。あのご婦人なら、今しがた店を出て行った。配達にでも行ったんだろ。いま店内には、旦那しか居ない……つまり、このタイミングで偵察させれば、あの店はターゲットから外れる。かえって好都合なのさ」
 ニヤリと笑うその鼻先に、ふわふわと宙に浮いたまま人指し指を付き立てた格好で固まる、カエデと呼ばれた和服姿の幽霊。このコンビは長年の付き合いであるらしく、互いに対する扱いにも遠慮は無かった。
「ふん……あぁ、もう片方のお嬢ちゃんも、街の反対側を探し回ってたよ?」
「んー? まぁ、大丈夫だろ。狭いとはいえ、これだけ人の多い街だ。特定の人間一人、そう簡単に見付かるもんじゃねぇさ」
「楽天的だねぇ……もしもの事があったらどうすんのよ?」
「そん時はそん時……あの小娘達を止める手なんて、幾らでもある」
 大きく伸びをしながら、能天気な発言でカエデを益々焦らせる男――リチャアム。
「ったく……それにしても、不思議な『気』を放つ奴らが多いねぇ? この街は」
「この街だけじゃねぇよ。ひょっとしたら、この世界を包む空気そのものが、何か変な流れになってるのかも知れねぇぞ?」
「んー……それはいいとしてさ、さっきのおチビちゃん、放っておいて良いの?」
「平気、平気。例えあのご婦人を見つけても、手出しが出来ないように呪(まじな)いを掛けておいた」
「……おチビはあの子だけじゃない、もう一人居るんだよ?」
「だからぁ、心配すんなって。手は幾らでもあるって言ったろうが」
 能天気に、商品と思しき卵のようなものを丁寧に磨いている彼を呆れ顔で見下ろし、カエデは思わず溜息をついた。
「しかし、何であのパン屋の女にそこまで肩入れするんだ? カエデよぉ」
「えー? だって、同じ女として同情しちゃうじゃないのさ、あの境遇を見れば……」
「やれやれ……10年ほど前にフランスで何を見てきたか知らないが、随分と人情に脆くなったもんだねぇ、オマエさんも」
「あら、聞きたい? アタシが出会った、とっても可愛い男の子のお話!」
「……後にしてくれ、あの小娘の気配を追えなくなる」
 何だかんだで、アンタも相当肩入れしてるじゃん……と、リチャアムに対して笑みを浮かべたあと、彼が先程無視した片割れ……テルシェの動きを監視するため、彼女は再び飛び去った。

********

 怪しげな二人が密談をしている間に、先程までの行動からノーマークとされていたテルシェが、思わぬところで手柄を立てていた。
「うふふ……みぃつけた!」
 街角にある、小さな保育所と思われるその場所にパンを届けに行っていたナディアが、テルシェに発見されてしまっていたのだった。リディアが不覚を取っていた分、その手柄は大きなものとなった。彼女は早速ナディアの後を追尾し始め、彼女が店に帰着するまで見付からずに尾行を続ける事に成功した。ついに店の場所は双子に見付かってしまったのだ。
(さて、これで勤め先は分かった……あとは、今どこに隠れ住んでいるか、だね……)
 店を監視できる位置に腰を落ち着け、閉店の時刻が来るまで待機するつもりだろう……テルシェは身を隠し、ひたすら日が暮れるまでその場を動かなかった。そんな彼女を見付け、あちゃー、という顔になるカエデが、更にその姿を監視していた。
(まぁ、狭い街だし……いつかはこうなるんじゃないかって思ってはいたけどね……さて、どうしようかな?)
 隠していた事実を、その断片とはいえ探り当てられてしまった以上、そこから先の秘密を守り通すことは難しい。今日この場を凌げても、明日はどうなるか分からない。いつかはその住処すらも見付けられて、その後はやりたい放題に暴れる事だろう。と、考え込んでいる間に、店の明かりが消え、まずナディアが看板を仕舞うために表に出てきた。
(あー、もう時間が無い……どうすんのよ、居待っ!!)
 物理的な阻止手段を持たないカエデにとっては、この事態は非常にもどかしいものであった。いや、厳密に言えば、テルシェの動きを封じて尾行を阻止する事は出来るが、非常に大きな力を要する上、その策では一時凌ぎにしかならない。やはり、店舗を発見された段階で大きく後手に回ったのは間違いなかったのだ。
 やがて、後片付けを終わらせた二人が出て来て、扉に『Closed』の札を提げると、彼らは肩を並べてアパートへと歩を進め始めた。
(一緒に帰る……? そうか、新しい隠れ家は、あの男の家か!)
 二人の後を追尾するテルシェを、カエデが更に追尾した。彼女の焦燥感はもはやピークに達しようとしていた。
(……仕方ない!! 一時凌ぎだけど……やるしかない!!)
 意を決したカエデがテルシェの体内に入り込み、韻を踏んでその動きを拘束した。いわゆる『金縛り』の状態を作り上げたのである。
(なっ……? 体が動かない!?)
(悪いけど、暫くジッとしていて……今、アンタに動かれたら困るの)
(だ、誰!?)
(ひ・み・つ!)
 そうしている間に、テルシェが追尾していた二人は視界の外へと消え、そこから先への追尾を困難にさせた。
「……うっ……動けるようになった……何だったの、今の!? それに、あの声……前に、ラティーシャにやられた時と同じで、直に頭に入り込んでくるような……? って、それどころじゃ……チッ!」
 目標を見失った悔しさで、テルシェは苛立ち、その悔しさを頭に巻いていたハンカチにぶつけていた。そんな彼女を見下ろしながら、カエデは肩で息をしつつ、額の汗を手で拭っていた。
(ハァ、ハァ、ハァ……やっぱ疲れるわ、コレは……コレを毎晩やったら、流石のアタシでも持たないぞ?)
 とりあえず、今夜は危機を逃れる事が出来た。だが、明日になれば戦力を増強した二人組が攻めて来るだろう。こうなると、実体を持たないカエデに勝ち目は無い。
(居待の奴に期待するしか、無いのかなぁ?)
 イマイチ頼りない相棒・リチャアムの顔を思い浮かべ、カエデはふわふわと彼の元へ事情を報告しに行く事にした。

********

「アンタ、良くそういう不思議体験する羽目になるね……大丈夫だった?」
「もう、ビックリしたよ……でも、収穫あったよ! アイツのいる店は突き止めたから、また明日にでも出直せばいいよ!」
 と、テルシェから大まかな報告を受けるリディアだったが、彼女はその店の在り処を聞いた途端、急に顔を青ざめさせ、両腕で自分自身を抱き抱えるような格好になって、ガクガクと震えながら脂汗を流し始めた。
「ど、どうしたの!?」
「その場所は……ダメ……私、そこには近寄れない……そんな気がするの」
「……!?」
 このリディアの反応こそ、リチャアムの言っていた『呪い』であった。彼は言霊に呪いを乗せ、彼女の深層心理に『あの女には近寄るな、近寄ればオマエは地獄に墜ちる』という暗示を掛けていたのだ。リディアは『その場所』と表現したが、実際にはナディア自身に近寄る事を禁じた呪いだったのだ。つまりナディアを捕らえても、リディアは彼女に近寄る事が出来ないので、彼女を労働力として直接使う事はもはや叶わないのである。
 これをテルシェにも掛ける事が出来れば、もはやナディアの安全は保障されたも同然であった。だが、テルシェはまだ無傷であった。明日もまた同じ場所で待機すれば、今度こそは尾行に成功するかもしれない。そしてその後にテルシェを介すれば、間接的に労働力を得る事は可能……まだまだナディアたちの危機が去ったとは言えないのだった。
「リディアこそ、不思議体験しちゃったんじゃないの?」
「そんな事ない……ただ、テルシェが見つけた店の近くで、妙な露店商人に呼び止められただけ……」
「ふぅん……?」
 未だにその露天商によって呪いを掛けられたとは気付かないリディアが、日中の出来事を回想した。無論、その回想だけで、リディアがこうなった理由まで推理する事はテルシェにも無理なので、とりあえず彼女としては見守るしかなかった。
「わかった! じゃ、リディアは留守番してて。明日、ぼくだけで店の前に張り付いて、今度こそ尻尾を掴んでくるから」
「……お願いするわ」
 未だに青い顔のままのリディアが、弱々しく返事をした。余程、その呪いは強力であるらしい。何しろ、店の場所を聞いただけでこの威力だ。実際にナディアに近寄れば、どうなるかは分かったものではない。彼女は自らが呪いを掛けられた事を知らぬまま、その不思議な呪縛の力に慄いていた。

********

「えぇ? アンタと喋ってた方のお嬢ちゃんは、もうあの人に触れるどころか、近寄る事も出来ない!?」
「言っただろうが、呪いを掛けたって……だから、明日も来る可能性があんのは、もう片方のお嬢ちゃんだけさ」
「じゃ、残った片割れにも、同じ呪いを掛ける事が出来れば……」
「そういう事。ま、状況に拠っちゃあ、あの嬢ちゃんより、もうちょっと酷い目を見てもらう事になるかも知れんがね」
 商品の一つと思われる、何が入っているのか分からない怪しげな瓶の埃を払いながら、リチャアムはニヤリと笑った。そんな裏があったとは露知らず、先刻、全力で妨害工作に出たカエデはぷぅっと膨れっ面になった。
「もう、それならそうと……」
 言い掛けて、カエデはグッと口を噤んだ。そういえばあの時、コイツはそんな事をボソッと言っていた……自分はもう片方のチビを捉える事に夢中になり、しっかりと話を聞いていなかったなぁ……と思い出したのだ。
「もう片方の嬢ちゃんは、恐らく呪いの掛かった嬢ちゃんを引っ込めて、単独で行動するだろう。となると明日は店を出す場所を、反対側にした方がいいな」
 膝小僧を抱えながらフワフワと宙に浮いた格好のまま、カエデはリチャアムの呟きに耳を傾けた。彼なりに策略を練っているのだろう、顔はにやけて居たが、その目線はいつに無く真剣だった。
「……連携した方がいいなら、指示をちょうだい」
「ん? そうだなぁ……じゃ、万が一、予想が外れて俺の店のある方から嬢ちゃんが来なかったら、なるべく早く教えてくれや」
「わかった。じゃ、アタシはあの子達のねぐらで張り込んでるから」
 カエデはリチャアムが軽く頷くのを見届けると、スッと姿を消して夜空へと飛び去った。そんな彼女を見送りながら、リチャアムは『ふぅっ』と一息ついて、大きく伸びをした。
「……あの嬢ちゃんの動きについては、カエデに任せておけばいいかな」
 この一連の騒ぎ……敢えて名付けるなら、ナディア救出作戦とでも言おうか。この件の発端を持ち掛けたのはカエデではあったが、実はリチャアムも何らかの形で対策を練る準備をしてあったのだ。そのうちの一つが、リディアに掛けた呪いである。
(以前、二人連れで街にやって来たあの双子を見掛けてから、なんとなく嫌なオーラを感じてたんだよね。あの二人、絶対何かしでかすって……そこに、あのイワク付きのご婦人が絡んできた。これはもう、ただの偶然じゃあ無い)
 イワク付きのご婦人というのは、言わずと知れたナディアの事だ。彼は一年前、あの大火事の中から彼女だけが『無傷で』脱出に成功していた時点から『このご婦人も、妙な連鎖に巻き込まれた中の一人か……』と目を付けていたのだ。
(あのご婦人、かなり驚いてたっけ……そりゃあそうだよな、あの燃える屋敷から逃げ出せただけでも奇跡に近いのに、着ていた服に焼け焦げどころか、スス一つ付いてなかったんだから……尤も、それから後の過ごし方は、お世辞にも利口とは言えなかったけどね。サッサとパン屋の旦那とくっついていれば、あの双子に見付かる事も無く、もっと平和に過ごせていただろうに)
 最後の方は、手間を掛けさせてくれている事への愚痴に近い雰囲気になっていた。が、彼としてもこの状況は既に見逃せないレベルになっていたので、それなりに真剣に取り組んでいるという訳だ。尤も、彼が真剣になっているのは、カエデのそれとは理由が全く異なるのであるが……ともあれ、彼は残った片割れ、テルシェに対するお仕置きの準備を整えると、やれやれ……といった感じで、漸くごろりと横になり、全身の緊張を解いた。

********

(今日こそ、アイツを連れ戻してお仕置きだ……ぼく達から逃げようったって、そうはいかないんだから!)
 翌日、テルシェは予定通りにバラックを出発、チェスターの店へと向かった。勿論、その上空ではカエデが目を光らせていた。今のところはリチャアムの予測通り、昨日と同じルートで店舗に向かっていた。よって、彼の待機位置も変更の必要は無かった。
(あの子さえ何とかしちゃえば、あの女の人はパン屋さんと幸せな人生を送れるんだ……邪魔はさせないよ、お嬢ちゃん!)
 カエデのテンションはもはや最高潮に差し掛かろうとしていた。同じ女として、ナディアには幸せになってもらいたいという想いが原動力となって、彼女を突き動かしていたのだ。当初抱いていた『妙な胸騒ぎ』は何処へやら、カエデはすっかり感情的になってしまっていたのである。
(アタシが幾らあの子を足止めしたって、根本的な解決にならないのは分かってる……でも、アタシはアタシに出来る事を精一杯やったんだ。あとは頼んだよ、居待!)
 コソコソと人波に紛れるようにして歩を進めるテルシェを、カエデはしっかりと見張っていた。そしてテルシェがリチャアムの待機している地点に近付き、その興奮度は更に高まっていった。
「おーい! そこのお嬢ちゃん!」
「……ぼく?」
「そうだよ、嬢ちゃん以外に誰が居るんだよ……ほら、珍しいもんがあるよ、ちょっと見てってよ。ホラ、コレとか……あれ?」
 リチャアムが言霊の射程距離内にテルシェを誘導するために呼び込もうとしたが、彼女は『構ってられるか』といった風に、彼を無視して立ち去り、その姿はもう遥か向こうへと遠ざかっていた。
「い〜ま〜ち〜〜!?」
 額に青筋を浮かべたカエデが、その怒りを隠そうともせずにリチャアムに抗議して来た。昨夜あれだけ念入りに策を練ったのに、こんなにアッサリ躱されてどうする! と、彼女はあらん限りの不満を彼にぶつけて来ていた。
「あっはっは! コイツは参った。昨日の娘に比べて、今日の子の方が目的に対する執念が強かったんだな。まさか、俺の念波に引っ掛からないでスルーしていくとはねぇ」
「感心してる場合じゃないでしょっ! どうすんのよ!?」
「だーかーらぁ、慌てんなっての。要はあの小娘がパン屋の旦那のねぐらを見付けさえしなければ、あの二人の生活が乱される事は無いんだ。幾らなんでも、白昼堂々、店で暴れるなんて事はしないだろうし……」
「そっかぁ……じゃ、帰りの時間まで待機して、尾行を始めたところで捕まえればいいんだね?」
 そういう事だと笑い飛ばし、夕方までは大丈夫だから様子を見ようと、リチャアムはキセルの煙草に火をつけた。ともあれ再びテルシェが動きを見せるまでは待機という事になり、目立つ行動は控えてジックリ張り込もうという策に転じたのだ。が、当の彼女は、彼らの想像の少しだけ上をいく行動に出ていた。
(まずはご挨拶だよ……ぼく達の恐ろしさを、ジワジワと思い知らせてやるんだ……)
 テルシェはわざと店の窓から見える位置に身を晒し、それが自分だとハッキリ分かるように頭に巻いたハンカチも取り去って、店の前をウロウロと歩き始めたのだ。
「……!? ひぃっ!!」
 その姿を見付けたナディアが、焼きたてのパンが入ったバスケットを取り落としながら、真っ青な顔になって後ずさりをした。
「どうした、ナディアさん!?」
「あ……あれ……あの、こちらを覗き込んでいる女の子……」
「あの子がどう……まさか、君が言っていた双子って、もしかして!?」
 その問いに無言で頷いて、ナディアはチェスターの推測を肯定した。しかし、そこには一人だけしか居ない。もう一人はどうしたんだ? と思いつつ、彼はナディアを庇うように店の奥に引っ込ませ、落ちたパンを拾う振りをしながら窓の外を警戒した。
「しかし、あの子達を敬遠してるのは聞いてたけど……そこまで怯えるのは何故!?」
「あっ、あの子は……あの子達は……ひぃぃ!!」
 ナディアは、すっかりパニック状態に陥っていた。彼女は10日あまりの平穏な日々によって彼女達からの圧迫から解放され、気が緩みきっていたのだ。そこに、恨み節を込めたような薄笑いを浮かべながらこちらを睨んでいるテルシェの出現である。ついに見付かった、10日以上も放置して食料も与えずにいたのだから、その怒りは相当なものだろう……捕まれば、何をされるか分からない……そんな恐怖感が彼女を襲い、怯えさせていたのだ。
(クククク……慌ててる、慌ててる! そう。アンタはもう、ぼく達から逃げる事はできない。それを思い知らせてあげるよ……)
 一際邪悪な笑みを浮かべたテルシェが、今度は店の方に近寄っていき、数回ドアの前をウロウロと歩いて様子を伺ったかと思うと、今度は店内に入っていった。
「ちょっと居待! あの小娘、動き出したよ!?」
「ふぅん? そいつは予想外……他の人間が近くに居たんじゃ、言霊作戦も、『コイツ』も使えねぇな……これは参ったね」
 ボリボリと頭を掻きながら、リチャアムは何やら印紋を描いたような左手をチラリと眺めた。どうやら、昨夜彼が用意していた『お仕置き』の手段とは、コレの事だったらしい。
「どうしよう……?」
「どうしようって言われたって、どうしようもねぇよ。今は様子を見る他に方法がねぇ」
「う〜〜〜!!」
 何も出来ない……と、カエデは自分の無力さを嘆いた。その時リチャアムの表情にはまだ余裕の色が浮かんでいたのだが、今の彼女がそれに気付く訳も無く、ただ焦燥感に駆られるだけであった。
 そして一方、テルシェが乗り込んだ店内には、現在他の客の姿は無く、ニヤニヤしながら店の中を見渡すテルシェ、彼女の動きに警戒しながら静かに迎え撃つチェスター、そしてカウンターの奥でガクガクと震えるナディアの三人が居るだけであった。
「……らっしゃい」
「悪いけどぼく、お客じゃないの。そこで震えてる女に用があるんだ」
「うちはパン屋だ、パンを買わないんなら出て行ってくれ。商売の邪魔だよ」
 その短いやり取りの後、暫く二人は睨み合っていたが、そのうちにニヤリと顔を歪めたテルシェが、商品の並ぶ棚のうちの一つを思い切り蹴り上げた。勢い良く舞い上がるパンを見て、彼女はひとしきり笑った後、チェスターを無視して言い放った。
「おい、そこでガタガタ震えてるオバサン! 観念して出てきな!!」
「……なぁ、そこに落ちたパン……もう売り物にならないんだけどよ。弁償してもらえるんだろうな? お嬢ちゃん?」
 無視されたチェスターの声が、甲高く叫ぶテルシェに向けて、低く、そして鋭く突き刺さった。
「は? 弁償? 何で? ぼくは棚を蹴飛ばしただけだよ、落ちたのはパンの勝手だろ? ぼくの所為じゃないよ」
 そしてテルシェはチェスターを睨み返すと、ずかずかと店の奥に向かって歩き出そうとした。が、そんな彼女の襟首を背中側からむんずと掴んで、彼はカウンターの裏側にいるナディアに向かって問い質した。
「おーい、ナディアさん。この嬢ちゃんに、ちょいとお仕置きして構わないかい?」
「……!?」
 その問いにナディアは驚いたが、声を出す事は出来なかった。未だ恐怖に支配されている所為もあったが、何より、どう返答したら良いのか分からなかったのだ。
「……返事が無いのは、了解と判断するよ? 大丈夫、コレは俺の勝手でやっている事だからね、君が怖がる事はないんだよ!」
「なっ、何をする……?」
 台詞を最後まで言い切る間もなく、テルシェの小さな身体は軽々と片腕で背を上にして抱え上げられ、残った片腕でスカートを捲り上げられて下着も下ろされ、その小さな尻を剥き出しにされていた。そして、次の瞬間……
「こいつは、落とされて売り物にならなくなったパンの分!」
 バシィ!!
「こいつは、親を親とも思わない悪ガキに対する、この俺の怒りの分!!」
 バシィ!!
「そしてこいつは、今日来てない、もう一人への土産だ!!」
 バシィ!!
「ッ……!!」
 合計3回、それも手加減無しのフルパワーで、テルシェは尻を叩かれていた。普段からパン生地をこねる事で鍛え上げられた太く逞しい腕と、大きな手から繰り出されるその平手打ちは、想像を絶するダメージを彼女に与えていた。
「なっ、何すんのよ!!」
「口で言っても分からない悪ガキには、身体で覚えてもらうしかないだろう? 特にオマエさんは、相当ワガママに育ったようだからな。どうせ、引っ叩かれた事なんか無いんだろうが? この甘ったれの世間知らず!!」
 図星であった。虐げられて育ったとはいえ、彼女たちは体罰を受けることは無かったし、悪さをしても叱る者は皆無であった。未だにチェスターの腕に捕まえられたままの格好でジタバタと暴れる彼女の目には、いつしか涙が浮かんでいた。
「……もう二度と、ここには来るな。来れば今度はこの程度では済まさんぞ」
 そう言うと、チェスターは彼女を店の外に放り出した。つまみ出したのではない、抱えたままの姿勢から放り投げたのだ。
「おっ、覚えてろ!」
「あぁ、忘れんさ。忘れたら追い返せないからな」
 周囲がざわめき立ち、放り出されたテルシェは僅かに注目を集めた。そんな中で弱々しく立ち上がると、お定まりの捨て台詞を残し、下ろされた下着を元に戻しつつ、ヨタヨタと走り去っていった。
「チェスターさん、何かあったのかい?」
「あぁ、何でもないですよ。ただ、店の中で悪戯をした悪ガキに、ちょっと仕置きをしただけです」
 集まってきた野次馬をやんわりと追い返すチェスターを、やっとの事でパニック状態から立ち直り、カウンターの中から出てきたナディアが呆然と眺めていた。
「……悪かったかな?」
「いいえ……助かりました。もう、どうなるかと……」
「しかし、いずれはあの子……いや、あの子達の事について、話し合わなきゃいけないね」
「話し合いの余地など……あの子達は罪人……いずれ、裁かれなければならない立場なんです」
「……!?」
 悪ガキとは聞かされて居たが、罪人とは……? と、意外そうな顔をするチェスターに、ナディアがゆっくりと説明を始めた。

********

「ひゃー、立派、立派! やってくれたねぇ!」
「ホント! アタシがやりたいと思ってた事、見事にやってくれたよ。スーッとした!」
 事の一部始終を野次馬に混じって見物していたリチャアムとカエデの二人は、涙目になって去っていくテルシェを見て大笑いしていた。ただ殴られただけではない、年頃の娘が尻まで剥き出しにされてお仕置きをされたのだ。これはメンタル的に大きなダメージを与える事になっただろう。現に、しぶとく付近に留まるかと思って警戒して見ていたのに、半泣きで逃げていったのだ。この様子からすると、再度出てくるのは早くても夕方以降になるだろう。
「……でも、絶対にまた出てくるよね?」
「当たり前だ、しかも次は今以上に怒りを込めて復讐しに来るぞ。なんせ、あの旦那も具体的な敵になったんだからな」
 ひとしきり笑って冷静になると、二人は今度は次の攻撃に対する予測を立て始めた。
「どうすんの?」
「んー? どうするかなぁ……あの嬢ちゃんが、ダメージ食ってる間にとどめを刺すってのも手なんだが……」
「……が?」
 考え込むリチャアムに対し、カエデは次の台詞を促すかのように相槌を打った。
「……うん、やはり急いで片付けちまおう」
 ポン! と膝を手で打って、リチャアムが立ち上がった。彼が急ごうと言った理由は理解出来ないままであったが、カエデもその決定に同意し、次に双子が打って出てくる前に片をつけてやろうと躍起になった。

********

「放火ぁ!?」
「そう……あのお屋敷に住んでいた、使用人を含む数十名の命を奪ったのは、あの子達なんです……」
 パン屋の中では、テルシェによって取り散らかされた店内を片付けながら、やっとの事で落ち着きを取り戻したナディアが、チェスターに一年前の真相を暴露していた。彼は目を丸くして暫く呆けていたが、やがて大きく深呼吸してナディアの方に向き直ると、ゆっくりと口を開いた。
「その話、誰から聞いたの?」
「あの子達自身の証言です。凄く冷静に『あんたを殺すつもりだった』って、私に……」
「なるほど、それであんなに怯えてたんだ……」
 その台詞に無言で頷くと、彼は再び思考の闇に落ちた。
「……生き残ったのは、ナディアさんと……あの双子だけ?」
「そのようです。あの子達は論外として、私自身、どうやって脱出したのかは覚えていないんですけど……」
「それだけ必死だったんだって事だよ」
 事実、ナディアは脱出の経緯を全く覚えていなかった。
 彼女は火災当時、最上階である3階の窓際にいた。周囲の異変に気付いて目を覚ますと、既に火の海の真っ只中にいたのだ。燃え盛る炎の恐ろしさと、そこから放たれる熱に耐えかねた彼女は、バルコニーからの脱出を試みようと窓の外に出た。しかし、窓を開けた途端に背後の炎は勢いを増し、猛然と彼女に襲い掛かってきた。まさに最悪の状況であった。その炎の渦を見た瞬間、あまりの恐ろしさにナディアはついに気を失い、その場にへたり込んだ……のだが、次に彼女が目を開いた時には、何故か無事に脱出を完了しており、火の手の届かない庭の隅に倒れていたのだった。
 その後彼女は、寝間着姿の我が身を覆い隠すために街のゴミ箱からボロ布を見つけて身に纏い、食べ物を求めて物乞いをしていた。その時に縋った相手の一人が、チェスターだったのである。
 彼はそんなナディアを閉店後の店へと導き、とりあえずその日売れ残ったパンとミルクを彼女に手渡した。チェスターの手厚い施しに感激した彼女は涙を流して喜び、何度も何度も頭を下げ、礼を言った。そして、酷い空腹であったにも拘らず、決して食い散らかしたりはせず、品良くパンを食べる様から、チェスターは彼女がただの乞食ではない事を見抜いていた。
 恵んでもらったパンとミルクを腹に入れ、人心地を取り戻したナディアは、再びチェスターに礼を言い、深々と頭を下げて立ち去ろうとした。が、彼はナディアを呼び止め、良かったら明日から店を手伝ってみないか? と誘ったのだった。
「……放っておく訳にはいかないな」
 静かに、そして重々しく口を開くと、チェスターはゆっくりと立ち上がり、ナディアを促した。
「今日はもう店じまいにして、警察へ行こう。そして、この事実を話すんだ」
「……それが最良ですね。あの子達のためにも、そして私自身のためにも」
「親子の縁は、これっきりになるかも知れないよ?」
「……構いません。私は、貴方との新たな人生に、これからの全てを捧げたい」
 涙を拭いながら、ナディアはクロムウェル家と実子に対して別れを告げる決心を固めた。その決心の裏側には、チェスターに対する想いが込められていたのは、言うまでもない。

********

「見事に真っ赤だねぇ……」
「思いっきり引っ叩くんだもん! しかも直にだよ、剥き出しだよ!? 女の子のお尻を何だと思ってるのよ、あのおっさん!」
 物が触れているとそれだけで痛みを感じるため、うつ伏せになり、真っ赤に腫れ上がった尻を上に向けて外気で冷やしながら、テルシェは事のあらましをリディアに報告した。自らの行為は棚に上げ、すっかり被害者気取りであった。
「で? 痛みが引いたら、また店に行ってみるつもり?」
「当たり前! もう、絶対に許さない!」
 そんな二人のやり取りを、一足先に到着してフワフワと宙に浮きながら眺めていたカエデは、すっかり呆れ顔になっていた。嬢ちゃんたちが逃げないよう、俺が着くまで監視しててくれ……というリチャアムからの指示が無かったら、二人の前にヌッと姿を現して、脅かしているところである。
(もー、居待! 早く来てよ!)
 ……と、その時。突然リディアが怯えの表情を浮かべ、ガタガタと震えだした。何事? と思ったカエデが、ひょいとバラックの外に顔を出して様子を窺うと、遥か向こうから、警官を引き連れたチェスターとナディアが歩いてくるのが見えた。リディアが怯え出したのは、リチャアムによる呪いがナディアの接近によって発動した為だった。
「て、テルシェ! 逃げよう、何か嫌な感じがする!」
「ええっ!? だって、まだお尻が痛くて……」
「我慢なさい!」
「もぉ、何なんだよぉ……」
 その慌てぶりを見て、テルシェは渋々ながらに着衣の乱れを整え、痛みを堪えながらゆっくりと立ち上がった。そして、外と中の様子を交互に見ながら、カエデもまた慌てていた。
(キャー! まさかの鉢合わせ! これじゃ逃げられちゃうよ、居待! 早く来てぇ!)
 と、一人であたふたと慌てるカエデの耳に、聞き慣れた声が届いた……尤も、その声は彼女だけでなく、バラック内の二人にも同時に届いていたのだが。
「……待たせたな」
「居待! 遅いよ、もう!」
 ギリギリになって到着したリチャアムに、カエデは抗議の声を浴びせた。だが、双子の耳にはカエデの声は届かない。彼女たちは、何が『待たせたな』なのかが理解できず、単に、突然聞こえてきた男の声に驚くだけだった。そしてリチャアムは、バラックの入り口の役を成しているカーテンの外から、中の二人に声を掛けた。
「お嬢ちゃん達、二択だ。俺と一緒に来るか、このままジッとしているか」
「……!?」
 気が付くと、リディアの怯えは無くなっていた。リチャアムが到着すると同時に、彼女に施した呪いを解除していたのだ。
(居待! どういうつもり!?)
 その行動の真意が掴めず、カエデは思わず疑問を投げかけた。が、それは無視して、リチャアムは二度目の勧告を行った。
「時間が無い、早く選べ。俺と一緒に来るか、それともここに残るか」
「そんな、ワケの分からない誘いに乗れるもんか!」
「そっかぁ……せっかく最後のチャンスをやろうと思ったんだがな……仕方が無い」
 リディアの回答を聞き、リチャアムは『やれやれ』といった表情になり、短く念を唱えると、手だけをバラックの中に突っ込み、二人に向かって新たな呪いを掛けた。
「え……?」
「な、何をしたの……?」
「んー、ちょっとお呪いをした。オマエさん達が、もう二度と、おっかさんに悪さが出来ないように……な」
 それだけを言うと、リチャアムはカエデに向かって『もういい』と目配せを送り、去って行った。
「な、何だったの、今の……?」
「ワケわかんない……」
 残された彼女達が顔を見合わせていると、その刹那……勢い良くカーテンが開かれ、数名の警官が彼女達の前に現れた。そこで初めて、二人は『時間が無い』と言われた事の意味を理解した。そして間もなく、彼女たちは一年前の放火の容疑で、警察にその身柄を確保され、連行されていった。
「あーあ、だから誘ってやったのに」
「……誘ってどうするつもりだったの?」
「ん? 来たら来たで、呪いを掛けてからリリースしてやるつもりだったよ。けど、結果としてはアレで良かったのかも知れんな」
 その判断は、警察に保護されている間は少なくとも、飢える心配だけは無いからという、極めてシンプルな理由に基づくものであった。因みに、リチャアムが新たに仕掛けた呪いとは、『特定の人物に危害を加えようとした場合に限り発動する』という、極めて範囲の狭いものであった。が、その代わり効果は長く持続し、ナディア達の安全を守るには充分な物であったという。
「今度は、警察の檻の中かぁ……つくづく、閉じ込められる事から縁が切れないねぇ、あの二人は」
「そういう運命なのさ……」
 短く呟くと、リチャアムは愛用のキセルを取り出し、ひと仕事終えた後の一服を楽しみ始めた。
「でもさぁ、あの二人……このまま大人しくしてると思う?」
「思わない」
 カエデの問いに、リチャアムはキッパリと言い放っていた。狡猾なあの二人の事、何だかんだですぐに逃げ出すだろう……と、彼は予測を立てていた。
「……いいんだ?」
「要するに……おチビ達が、あのご婦人に関わるのを諦めれば、それでいいのさ。それだけ果たせれば、脱獄しようがどうしようが、俺の知ったこっちゃ無い」
「え? 他にも悪さをするかも知れないじゃん、それは良いわけ?」
「良いんだよ。それよりカエデ、お前……以前『不思議な気を放つ奴らが多い』って言ってたよな? それに気付いたの、最近か?」
「え? あ、うん……そうだね。少なくとも、ちょっと前まで居たフランスでは、こんな妙な気配は感じなかったよ」
「そう、か……」
 キセルをポンと叩き、吸い尽くした燃えカスを落とすと……リチャアムは遠い空を見上げながら、『イヤな空気だ。これ以上荒れなければいいが』と溜息を吐いた。

********

(……また、檻の中かぁ……)
(大丈夫、すぐに出られるよ……事実は闇の中、見た奴は誰も居ないんだから。あの女の証言だけじゃ、実刑にはならないよ)
 今度は二人一緒の檻ではなく、互いに向き合う格好で違う檻に入れられていた双子の姉妹。彼女たちは読唇術を駆使して、周囲には聞こえぬ会話を続けていた。
(ここを出たら、今度はどうする?)
(考えてない……でも、絶対にオトナたちの思い通りにはさせない。私達は自由なんだ、誰にも私達を縛る権利なんか無い!)
 幼い日から積もり積もったオトナへの恨みが、彼女達を突き動かした。それはまさに、怨念と呼んでも差し支えの無いほどに強く、そして時間を重ねるにつれて、更に邪悪なものへとなって行くのだった。
 彼女達が、ナディアに危害を加える事が出来なくなっているのは確かだったが、二人はまだその事を知らない。ナディアが生きている間は、彼女達の意識からその恨みが消える事は無いだろう。そして、オトナに対する恨みが無くなる事も、今の段階では考えられる事ではなかった。
 この先、彼女達にどのような運命が覆い被さって来るのかは、まだ誰にも分からなかった。

<了>




『夢の軌跡』の外伝その5です。
全然更新してなかったこのシリーズを、何で今頃? とお思いの貴兄。
違うんです、逆です逆。『今だから』なんですよ。
いや、この第5話はこの先の展開を煽る形で結ばれている為、出しちゃ拙いんじゃないかなーと思ってたんですけどね。
原典が既に存続していない以上、この先の展開はどう頑張っても書けない訳で。
だったら、この先の展開は読者様のご想像のままに……ってな感じで良いかな、と。

と云う訳で、忘れた頃に更新となって、読む人も居ないんじゃないかなーと思われる中、強引に引っ張り出した続編でした。
因みに、このお話で『夢の軌跡』外伝は完結となります。
(2019年12月21日)


Back